取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「赤穂」で検索した結果,31件の記事が見つかりました。

新見御殿町まち歩き【2】

niimi1-5.jpg

新見藩の歴史
 このまちは江戸時代元禄10年(1697年)に初代新見藩主関長治侯によってつくられたまちです。新見藩は1万8千石です。元禄時代はすでにお城は造れない時代でしたので、御殿(官邸)を建て、そこで政務を執られました。このことによりこの地区を新見御殿町と言っています。
 関家と森家の本国は美濃です。両家は濃い姻戚関係にあり、共に織田信長に仕えておりました。天正10年、本能寺で織田信長に最後まで従って戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の一番末の弟が千丸で、千丸だけが幼くて美濃に残っておりました。その後、千丸(森忠政)は関ヶ原の戦いで功を認められ、徳川幕府から津山藩18万6千石を賜りました。この森忠政侯が津山藩森家の藩祖です。その時、関家も津山へ移りました。津山藩森家の2代目のお殿様は関家の長男(長継)で、長継侯の子、長治侯は逆に関長政侯の養子となり、作州津山藩の中に1万8千石の領地をもらって大名となりました。森家5代目衆利侯が急死し、跡継ぎが無かったのでお家は断絶。森家は分かれて播州三日月城と播州赤穂城へ移らなければならなくなり、それに伴って関家も津山から新開地の新見へ移封されることになりました。元禄10年のことです。こうして新見藩が誕生したのです。
 その後、新見藩関家は明治まで9代続き、現在は第13代末裔の関勝氏は埼玉県におられます。

新見御殿町まち歩き【2】の続きを読む

赤穂浪士3人の初の慰霊祭「三士祭」2017.3.1

yogorou.jpg

 忠臣蔵で有名な赤穂浪士で美作国にゆかりのある、神崎与五郎則休茅野和助常成・横川勘平宗利のことを忘れてはいけないと「三士祭」(主催:津山市観光協会、協賛:お国じまん研究会、後援:津山市文化協会)が、徳守神社境内の神崎与五郎歌碑前に於いて初めて執り行われました。(撮影:2017年3月1日午前9時~10時)

赤穂浪士3人の初の慰霊祭「三士祭」2017.3.1の続きを読む

津山藩の学問世話掛かり鞍懸寅二郎

kurakake1.jpg

  幕末、津山藩と幕府や朝廷の間で活躍した武士の一人に、鞍懸寅二郎がいます。
 寅二郎は赤穂藩(兵庫県)の出身でしたが、若いとき江戸で儒学を学び、津山藩の学問世話掛かりとなり、幕府や他の藩との交渉役などをつとめました。また改政一揆では、民衆の説得に当たり、一揆をしずめました。
 明治になり、徳川の親戚である津山藩は、朝廷の敵とみられましたが、寅二郎は藩内をまとめ、津山藩が新政府に従うことを、政府や周りの藩に伝えました。
 その後寅二郎は、藩の代表として活躍する一方、政府の役人として、廃藩置県などの仕事を進めていましたが、1871年、津山で何者かに殺されました。

津山藩の学問世話掛かり鞍懸寅二郎の続きを読む

三橋神社(小性町)

kosyo5.jpg

 小性町の三橋神社は正徳2年(1717)9月29日に宇賀之魂命を勧請。天保8年(1837)に赤穂屋多十郎発起のもと社殿を改築し三端大明神と尊称。
 安政5年(1858)赤穂屋紋右衛門の寄進で屋根葺き替え、明治34年(1901)、江川|浅次郎発起で拝殿改修、更に昭和15年改築を行う。祭神の宇賀之魂命はいわゆるお稲荷さんで三橋家の屋敷神であったが、後に町内神として記られるようになった。所在:津山市小性町 祭新:宇賀之魂命(うがのみたまのみこと) 創建:正徳2年勧請
祭礼:夏祭 7/24 敬老祭 9/8 秋祭 10/24(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年12月7日撮影)

三橋神社(小性町)の続きを読む

愛染寺にて「子育て水子地蔵万灯会」がありました。

mizuko18.jpg

2016年8月24日午後7時から、津山市西寺町にある愛染寺にて「子育て水子地蔵万灯会」がありました。当日の夕焼けはとても美しく思わず写真に収められずにはいられないほどでした。また、毎年子ども達が描いた灯ろうに火をともし、檀家の皆さんが多数来られて供養が厳かに行われました。
 愛染寺は、鐘楼門及び仁王堂は、岡山県指定文化財建造物に指定されています。また、大師堂裏に「秋月妙清信女」の墓があります。この墓は神崎与五郎則休の生母の墓で、元禄3年に死没し、与五郎がここに葬りました。与五郎は寛文6年津山 で生まれ、のちに赤穂藩浅野家に出仕、赤穂義士として元禄16年江戸城水野邸で自裁、泉岳寺に眠っています。(2009年9月撮影時の様子)(ぼたん祭りの様子

愛染寺にて「子育て水子地蔵万灯会」がありました。の続きを読む

浅野家と義士の寺 台雲山 花岳寺(かがくじ)

kagakuji2.jpg

花岳寺(かがくじ)は、兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山(たいうんざん)。
播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓所、義士墓所がある。浅野家、赤穂義士に関する宝物を展示する宝物館、義士木像堂には、大石家代々の持仏・千手観音を祀り、四十七士の木像を安置する。
江戸時代初期の正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直公が浅野家菩提寺として創建した。元禄14年(1701年)、浅野長矩公による江戸城松之廊下での吉良義央に対する刃傷事件が起こり、浅野家は改易となった。翌、元禄15年(1702年)赤穂義士による吉良邸討ち入りが起きた。(赤穂事件)その後、赤穂藩には永井家が入り、宝永3年(1706年)には森家が赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めた。赤穂義士37回忌にあたる元文4年(1739年)には境内に有志により義士墓が建立された。ここには遺髪が納められているとされる。また、宝暦2年(1752年)は赤穂義士50回忌にあたり、大石主税と幼な友達であった龍野の藩儒藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれた忠義塚が建立された。明治維新後、赤穂城が解体され塩屋惣門が花岳寺の山門として移築されたとされる。現在山門は、赤穂市文化財に指定されている。(2016年5月5日撮影)

浅野家と義士の寺 台雲山 花岳寺(かがくじ)の続きを読む

忠臣蔵四十七義士・茅野和助常成について

kayano-wasuke.jpg

自眼流居合の使い手にして歌人
茅野和助常成
志深浅働次47士中43番目
・町医者に扮して、吉良邸付近を探索。
・赤穂浅野家に四年間仕えただけにもかかわらず、討入りに加わった。
・槍は浅野家屈指の使い手で、自眼流居合を得意とした。
・歌道で秀で、秀峰と号した。
生年・生国 寛文7年(1667)・美作国
役   職 横目
行   年 37歳(元禄16年2月4日、切腹)
祖父・父ともに津山森家に仕えていた。常成は最初から義盟に加わり、吉良邸探索に力を尽くした。泉岳寺修業僧白明の依頼により和歌一首、俳句一句を書いた。

忠臣蔵四十七義士・茅野和助常成についての続きを読む

忠臣蔵四十七義士・神崎与五郎則安について

kanzakisan800.jpg

脱藩藩士を厳しく批判した「赤城盟伝」を著した赤穂藩随一の酒豪
神崎与五郎則休(1666~1703)
志深浅働次47士中37番目
・酒好きで、ついたあだ名が「燗酒よかろう」(講談)
・短歌を詠み、俳句を作り、江農舎竹平と号す。
・「赤城盟伝」を前原伊助と共に記した。
・吉良邸近くに、前原と共に米屋を開き、探索にあたる。
生年・生国 寛文6年(1666)・美作国
役   職 徒目付、郡目付
行   年 38歳(元禄16年2月4日、切腹)
もと津山森家の家来だった。文武両道に秀でていただけでなく、俳句が得意でいくつか残されている。扇子や小物を売り歩いて吉良邸を探索した。前原宗房とともに「赤城盟伝」を著した。

忠臣蔵四十七義士・神崎与五郎則安についての続きを読む

赤穂城跡

mon.jpg

 浅野長直の指示によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。赤穂城跡は軍学に従って築かれた城であり、徳川幕府が始まって約50年後に築かれたにも関わらず、その構造は戦を強く意識しており、複雑に折れ曲がる石垣、角度を違える諸門に特長があります。城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある舟入は船が出入りできるようになっています。  昭和46年に国史跡指定を受け、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定され、文化財の修復・復元はもちろん、都市公園としての整備も進むなど、赤穂市のシンボルにふさわしい城跡として蘇りつつあります。(文:(一社)赤穂観光協会HPより抜粋

赤穂城跡の続きを読む

大石内蔵助邸の長屋門

oishi6.jpg

大石邸長屋門 この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・八メートル、奥行 約四・八メー トルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税 の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
 安政三年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。
 更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三、一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。 赤穂義士会(文:説明板より)

大石内蔵助邸の長屋門の続きを読む