巨白庵の墓碑文から(中村)

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新善光寺にある巨白庵の墓碑に次のような文がある。
  先生諱文水三箇尻氏號巨白庵豊後大
  分郡入蔵邨人考日貞輔先生其第三子
  也幼入禅門天保定住播磨三日月邨慶
  雲寺嘉永三庚戌歳退隠美作東南条郡 
  野村吟花嘯月以自娯旁以句讀習字教
 先生の名は文水、号を巨白庵といい、豊後大分郡入蔵村の三箇尻貞輔先生の第三子である。幼少のころ禅門に入り天保年間に播磨三日月村の慶雲寺に住んだ。嘉永三年に寺を退去して美作東南条郡野村に住み、漢詩や歌を詠み、習字を教えたと記している。
 この文によると、巨白庵は嘉永三年(1850)に野村に来た。彼の前任の初代講師半仏道人は三年ほどで帰国したとすれば、村塾の開設年は「成名校沿革について」の文政末期より一六・七年後の弘化四年(1847)か嘉永元年(1848)であることになる。このとき文化十二年生れの保田平兵衛は三二・三歳、細岩井手の開鑿に取り掛かる安政元年の七・八年前であった。
 巨白庵について付け加えておく。
 嘉永三年(1850)野村に来たと墓碑にある。平兵衛の招聘によって塾の教師になったと思われ、以後「一四・五年間」も教えた後出雲へ行くが、塾の門人の要請により明治二年(1869)また帰って教師を続けた。

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 明治十年(1877)成名校が開設されたので、巨白庵は楢村字有女原に私塾を開いて教師を続けた。しかし、二年後の明治十二年(1879)七〇才で病没し、塾生であった中村の新善光寺の福田喜宥師の縁で同寺に葬られた。彼は計二四・五年間もこの塾の講師をしたのである。この間、教えを受けたものは前述のように遠近の村々の「郷党の子弟」つまり地域の中心的な存在である相当多数の門人たちであった。
 この門人たちによって明治十六年(1883)の命日に立派な石碑が建てられた。初盆には供物をして供養を依頼する門人たちからの手紙が寺に残っている。時おり門人たちが墓参をしたのであろう。供物と供養を寺に依頼した書類も残さてれいる。(新善光寺住職富田氏の資料)
このように彼は多くの弟子から慕われていて、巨白庵という号からも大きな人物が想像できる。野村に来てからは「吟花嘯月以自娯」花や月を友として楽しむ傍ら塾の教師をして子弟たちを育てたと墓碑に刻まれている。遠い異郷の地ではあったが、多数の門弟から慕われて仕合な生涯であったのではなかろうか。
 四年後に妻の「近東泰元尼」も没し、門人たちによって夫婦連名の位牌が同寺に納められている。
(文:『川湊 楢村』より転載)

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歴代の教師 塾の歴代の先生は順に次の人たちである。

歴代の教師
塾の歴代の先生は順に次の人たちである。
①宮崎萬五郎(半仏道人)越中の人、勝北郡豊久田村の佐々木祐四郎(雪峰)の周旋による。三年後生国へ帰る。
②文水禅師 三ヶ尻米次郎(巨白庵)豊後の人、十四.五年間も教えた後出雲へ行く。教えを受けた者相当多数である。
③柴原 和(靖慮)「播州竜野藩士、竜野の人、勤皇の説を唱え、鞍懸寅二郎・井汲唯一等と往来す。後、千葉県令に任ぜられ、日本三県令の称あり。再び出て秋田県・香川県の知事に歴任せられ、のち官を辞して進歩党副総理となり貴族院議員に勅任さらる。」(保田秉吉編「遺稿雑纂」)
柴原は数年で藩主に従って帰った。
このあとに三ノ日、四ノ日、八ノ日に次の津山藩主が来て教えた。

・鞍懸寅二郎 赤穂で生まれ、若くて勘定奉行になったが、反対派の策謀から藩を追われ、津山に来た。やがて津山藩に用いられ国事周旋係となりたびたび京へ出張し、尊王の他藩士と交わる。小豆島事件では対英交渉を幕府に掛け合う。幕長間にあって難しい藩の立場を彼らの奔走によって切り抜けた。のちに明治政府の権大参事となる。

・小原千座 徳守神社祠官、津山を代表する万葉歌人。当時有名な歌人たちと交友があった。
・小原竹香 (文化十二年~明治二十六年)小原千座の長男。勤皇の志を抱き、鞍懸寅二郎等と意気相投。勤皇の士として全国人士と交わり、津山のために貢献した。
・小原敬次郎 不明
・上原先生 不明であるが、この時の藩士に上原憬一郎という人がいる。彼は新渠紀功碑(近平用水事業顕彰碑)の碑文を記した。田町に在住。「時敏学舎」塾を開設した。(温知会誌・津山市史)。碑文を通して平兵衛とつながるのではないかと思われる。
・井汲先生 (註 唯一か。津山藩士、剣法に優れ江戸に出て文武両道を深く学び、多くの子弟に剣術指南のかたわら勤皇の士と交流し、鞍懸などとともに活躍する。津山にも他藩の士が多く彼の元へ剣術修行に来た。唯一は在京の間に長州藩士等と交流していた。彼の勤皇過激化を恐れた津山藩により入牢させられ、獄中で死んだ。)
・吉田先生 不明 吉田武士郎か。彼であれば寅二郎の一軒おいて西隣りに住んでいたという。
・中村靖市 不明 堀坂用水の暗渠を設計した中村加芽市の一族か。

続いて塾の先生は
④金兵衛先生 讃岐の人 一年ほどで帰る。
⑤河野玄里(蘭斎) 備前の藩士、備前の国周佐大龍寺の住職の周旋による。二年で備前の君侯に従って帰った。
⑥川崎外内 不明
慶応元年に塾の位置を楢村の有女原に移す。
⑦三ヶ尻米次郎(巨白庵)門人の紹介によりまた帰り教えた。(明治二年)
  明治十年、成名校を開設したので巨白庵先生は有女原で私塾を開いた。四年後に病に罹り死亡した。
 この「学校の沿革」とは別に、塾の設立発起人平兵衛の業績を整理した伝記小冊子で前出「遺稿雑纂」にはつぎのように書かれている。
 「(平兵衛の)其事蹟挙げて数ふ可らずと雖も茲に其顕著なるものを三つ挙げん。一に日く教育事業、乃ち村塾を設け良師を聘し、郷党子弟を教育す。聘に往じて来る者
・半仏道人 越中の人、宮崎萬五郎と称す。昆弟十二人皆勤皇家なり。
・佐々木雪峰 本州豊久田村の人、名は鏗。
・文水禅師 豊後三ヶ尻の人、巨白庵と号す。
・柴原靖盧 (前に記したので略)
・井上雲樵 津山の人、長崎に遊び僧鉄翁に従ひ南画を学び、又広瀬淡窓の門に入り文学を学ぶ。
等皆碩学の士なり。これをもって現今地方の古老其教育を受け、学を好み、理を解するもの甚だ多く民智の発達他方に比して常に一頭群を抜けり。是皆定静(平兵衛)経営の功に頼らずんばあらず。(以下略)」
 塾の講師は、越中・豊後・備前・播州竜野など他国の人や津山藩士などいずれも碩学の士であり勤皇の人たちも多く、塾を興した保田平兵衛の知人や交友関係から招聘に応じた人たちであったという。