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取材記事内を検索ワード「秋」で検索した結果,492件の記事が見つかりました。

八塔寺川ダム

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 堤の長さ226mの八塔寺川ダムは水と緑のやすらぎゾーンです。サイクリングロードで続く、ダム湖上流には、赤い吊り橋が架かり、春は桜、秋は紅葉の名所ともいえる、渓谷レクリエーション広場。町北部の八塔寺ふるさと村と並ぶアウトドアエリアとして脚光をあびています。(文:『備前市HP』より)

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八塔寺川ダム公園(吉井川中流県立自然公園)

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 津山市から備前市の閑谷学校に行く途中に八塔寺ダム(備前市吉永町高田)がありますが、その周辺が八塔寺川ダム公園となっております。昨年、友人が行って綺麗だったと聞いていたので今年は訪ねてみました。昨年は11月の20日が丁度紅葉真っ盛りだと聞いていたのですが、今年は終わりがけでした。それでも十分に綺麗でしたよ。吉井川に沿って細い道を入ると植えてあるモミジのトンネルがとても綺麗です。車から降りて川沿いを散歩すると気分転換にもってこいです。(2017年11月19日撮影)

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浮田神社(上紺屋町)

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上紺屋町の町内神。浮田の名の由来は、不詳。
 ここの道路の北側に稲荷社と金比羅社が把つであったが、明治の頃、町内の鳥羽屋に肥られていた御大師様と合わせ三体を並べて大師堂と称し町内でお記りするようになった。その歴史は明らかでないが、古くからのものと思われる。
所在:津山市上紺屋町 祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
創建:不詳 祭礼:秋祭10/第三日曜 (文:津山城下町まちなかお社巡りマップ  津山まちづくり本舗より抜粋)(撮影2017年4月23日)

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【津山人】浮田佐平(1867-1939)

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 浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
 父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
 母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。 
 浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
 大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
 それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。

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髙守神社(坪井町)

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 坪井町の町内神は伏見稲荷より文政4年(1821)に勧請した髙守神社である。
髙守神社のある場所に髙砂屋金次郎という人が住んでいた。その屋敷神とし記られていたものが町内に引き継がれている。以前は髙森神社と称していたのを、明治24年(1891)に社殿が造営されたのを期に改めた。表通りからは見えずあまり知られていないが、きれいな町内神である。(文:『津山城下町まちなかお社巡りマップ』 津山まちづくり本舗)(撮影:2017年4月23日)

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絵画史料に見る江戸の洋楽事始

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 日本の教育や音楽隊などに本格的に西洋の音楽が導入されたのは、明治時代以降と言われていますが、江戸時代にも長崎出島を通じて洋楽はもたらされており、オランダ人と交流するわずかな機会を通じて、日本人もその調べを耳にすることができました。そのような状況の中で、津山藩の洋学者宇田川榕菴は、日本で初めて学術的に西洋音楽を研究し、「西洋楽律稿」などの稿本を残しました。
 本展では、出島への伝来から、ペリー来航、開国に至るまでの江戸時代の西洋音楽受容の歴史と榕菴の研究について、版画や錦絵、榕菴の直筆資料を通じてご紹介します。(文:津山洋学資料館HPより)(2017年10月17日撮影)

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白石齊・白石孝子夫妻の二人展

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陶芸家の白石齊さん(赤磐市)と奥様の白石孝子さんの二人展がアルネ津山4階のアートギャラリーで開かれました。10年ぶりに津山で開催する二人展です。齊さんの鳥の花器や皿・茶器も面白く、孝子さんの陶板に描いた秋の絵がいいですね。白石齊さんは、津山市田町出身で芸術一家。兄弟には俳句で有名な故白石哲さんや、民芸館の白石靖さんがいらっしゃいます。奥様の白石孝子さんは、日本では珍しいイコン画家さんです。(2017年10月21日撮影)

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新屋敷荒神社(新屋敷)

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新屋敷の町内神として荒神社がある。左右にお末社三社を祭把し、由緒は不詳。
新屋敷の侍屋敷は約52年存続し、元文4年(1739)に廃された。文人画家の広瀬台山も文化年間にこの界隈、安岡町の裏屋敷(墓碑には新田村とある)で晩年を過ごしたという。(文:『津山城下町まちなかお社巡りマップ』 津山まちづくり本舗)(撮影:2017年4月23日)

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笠場山福聚院 普門寺

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笠場山福聚院 普門寺 縁起
 木版略縁起によれば、「作州真嶋郡笠場山普門寺は往昔弘仁七年(816)吾弘法大師始めてこの山にあそび精修勤念したまう時に、祥瑞嶺上にあつまり閃光渓道に映ずるを観て、師深く求法の勝地なる事をさとり、ついに即ち本尊聖観音、不動、毘沙門の三尊並びに仁王の像を彫刻し、伽藍僧舎を草創して秘密瑜伽の道場をおこしたまう。しかるに、去る乱世の頃、仏閣ことごとく兵火に炎焼するといえども、彼の尊は泥中に入りて焼失したまう事なし。まことに上求菩提下化衆生の尊像なり。」とある。
 当時、普門寺周辺には、松本坊、一乗坊、中坊、新蔵坊の他数十戸の民家があり、耕地が開けていた。当山鎮守として、熊野三所権現を歓請し、北に大山を遙拝して信徒諸地より雲集していた。なお、本堂は寿永二年(1183)春、享保八年(1723)に再建され、辻氏安兵衛秀勝氏によって再建された記録もあり、現在の建物は、明治二十八年(1895)秋に再建されたものである。
常内に安置されている龍の彫刻(干ばつ時雨乞いの祈祷に用いた)は元禄二年(1689)当時の欄間である。(文:石碑より)(2017年5月14日取材)

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2017 大隅神社の秋季大祭

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2017年10月15日(日)津山まつりがスタートした。東の「大隅神社」の還幸は、雨の為イーストランドではなく、玉琳公会堂がお旅所になっていました。また、出動だんじりは、兼田・川崎・太田、玉琳・東松原・古林田・東新町・西新町・上之町7丁目・中之町・勝間田町の11台の予定でしたが、本まつりは残念ながら雨の為、太田・川崎・兼田の3台になりました。催し会場のイーストランド駐車場であったイベントの時間も雨の為少し早まって行われていました。関係者の皆様、雨の中をお疲れ様でした。(2015年の祭の様子です。)

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