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取材記事内を検索ワード「街道」で検索した結果,229件の記事が見つかりました。

河辺上之町(桝形)津山市指定史跡

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河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
 津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。

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荒神山城跡(市指定史跡)

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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)

荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
 本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。

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中須賀船着場石灯籠

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▲中須賀船着場石灯籠(2011.4.10)

中須賀は、吉井川の船便を利用し、下流にある備前国との交易をする物資の集積地として、また宿場町として栄えた地で、出雲街道の要衝のひとつであった。
 ここにある三基の灯籠は、航路の安全を祈る為に建てられたもので、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(明治元年11月吉日)の石灯籠が、また、吉井川沿いには金比羅宮(嘉永7年10月吉日)と刻まれた石灯籠が建てられ、常夜灯として昭和10年代頃まで各家順番で点火していたということである。
その後、これらの石灯籠は、河川改修によりこの場所に集められ、現在に至っている。久米町教育委員会(2011年4月10日、中須賀船着場の看板より)

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愛染寺

城下町津山の西寺町を東西に走る旧出雲街道に面して建つ愛染寺。もとは金剛寺と称したが、延宝年中に愛染寺に改名。
鐘楼門の両脇に仁王堂が付属している珍しいもので、下層柱を内転びにするなど細かい技術的工夫がされている。
鐘楼門及び仁王堂は、岡山県指定文化財建造物に指定され、仁王像は市指定文化財彫刻にも指定されている。
5月の上旬にはボタンが見頃。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/aizenzi/index.html

美作国嵯峨山城跡

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▲2011年3月4日(金)午前6時に集合して美作国嵯峨山城跡へ行きました。(往復約40分)

正面に見えるのは津山城「鶴山城跡」です。皆さんもいかがですか?私にとって新しい発見があり、また、とっても清々しい朝となり幸せな気分で一日が過ごせました。【4月満開のつつじ】 【嵯峨山城跡とは】

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大晦日、城東地区で竹灯籠300個のイベント

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 まちおこしの一環として、津山城東むかし町実行委員会主催の「宵の城東むかし町 涼風 城東灯籠祭り」が毎年7月18日に城東町並み保存地区で開催されます。旧街道沿い1.2㎞の区間内に城東地区の方々の手作りの灯籠が並べられ、古い町並みを温かい灯りで浮かび上がらせる幻想的なイベントですが、このイベントに訪れる方々はどう感じられているのか、今後もより良いものにしてゆくため、昨年のイベント時に来訪者にアンケートを実施しました。その結果、相対的には評価してくださる意見が多かったのですが、もう少し灯籠を増やして欲しいという意見もあり、この意見を受け、城東むかし町実行委員会の中から灯籠を増やそうという声があがり、5人のメンバーで「城東地区を元気にする会」が結成されました。
「城東地区を元気にする会」では、城東地区を元気な町にするため、楽しく地区内外の方々が交流できる場をつくり、地区の活性化を図ることを目的に活動をされています。
昨年の大晦日には大信寺に手作りの竹灯籠を300個ほど並べ灯りで幻想的な空間をつくりだし、100人もの参拝客に大変喜ばれました。
今後は、四季を通じて城東地区で竹灯籠のイベントを開催される予定です。

(文:特定非営利活動法人 つやまNPO支援センター まちのコンシェルジュ 山名 里佳さん)

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津山城址と城東町並み保存地区巡り

日本の桜名所百選「津山城(鶴山公園)」を起点に、自然史の総合博物館や古い家が軒を連ねる旧出雲街道沿いの城東町並み保存地区を巡るコースです。

(パソコンでご覧の場合は、ルート案内が表示されます。)
 
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出雲街道 坪井宿

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坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

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田邊城跡

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▲2010.4月29日

田邊城(年末砦)
 田邊城は津山市中北上と宮部下の境界線上の、標高231米の山上、600米にわたって砦は構築されている。
この城の縄張りは、縄張図でわかるように馬場曲輪をふくむ19ヶ所の曲輪から成立ってている。主郭は東西が22米、南北17米の長方形で周囲を土塁で囲んでいる。
主郭の東側に曲輪があり、その曲輪の東側に二筋の堀切が掘られ主郭の備えが堅固となっている。二の郭は三ヶ所の曲輪から成り、中心になる曲輪が東西43米、南北が18米あり、両側に小曲輪を一段ずつ持っている。三の郭には4段の曲輪があり、中心になる曲輪が18米の正方形を成し、西側に三段の小曲輪が続き、四の郭えと通じている。四の郭は中心になる曲輪が東西24米、南北14米の長方形をなし、北西の端に大きな井戸を掘っている。井戸の直径は7米もあり、深さは長い年月、土・木の葉で埋まって不明である。都合5カ所の郭からこの城は成っており、それどれの曲輪に3米から5米の切岸を備え、切岸の下に犬走りが取巻き、互いに連絡がとれるようになっている。
その他、掘切り.のある箇所から南側と北側に堅堀が下がっている。東の端に東西200米、南北最大幅75米の馬場と呼ばれている平地がある。以上が田邊城の概要である。(情報提供:田邊九吾)

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