2011年11月13日(日)「さら山時代祭り」
2011年11月13日(日)に行われた「さら山時代祭り」の様子です。
上記の写真は後醍醐天皇と警備の武者です。佐良山幼稚園児の踊りや四つ拍子踊り、ヒップホップ、西中ブラスバンドの演奏等などがメイン会場でありました。また、カキ谷古墳下広場では「もりいさむコンサート」が行われ、会場を彩った900個の風船が見事に咲きました。その他、出雲街道うぉ~きんぐでは「荒神山」に登りました。
2011年11月13日(日)に行われた「さら山時代祭り」の様子です。
上記の写真は後醍醐天皇と警備の武者です。佐良山幼稚園児の踊りや四つ拍子踊り、ヒップホップ、西中ブラスバンドの演奏等などがメイン会場でありました。また、カキ谷古墳下広場では「もりいさむコンサート」が行われ、会場を彩った900個の風船が見事に咲きました。その他、出雲街道うぉ~きんぐでは「荒神山」に登りました。
日吉神社は聞き伝えによると、滋賀県の日吉大社から持って帰ったと言われています。大国主命の弟をお祀りしているとのことでした。太田町内会の宮総代の下山清さんは「昔は廻り舞台もあったが、終戦後に壊したのではないかと思います。そして、参道脇にはワラ家があって賑やかでした。また、日吉神社はすもうの神様なので境内には土俵があり、よく相撲をしていました。」とお話くださいました。日吉神社には記録も紛失して残っておらず、しかも荒れ放題だったのを下山さん達皆で立て直されたそうです。日吉神社は、川崎太田、玉琳、飯綱、東野介代、野介代東分の各町内会が氏子だそうです。毎年7月13日には「お湯立て」があるそうです。2011年10月16日取材
「津山・城西まるごと博物館フェア2011」
大正時代、商人のまち・職人のまちとして栄えた、津山市城西地区。
その城西地区が最も栄えた時代にスポットをあて、全国から手工芸作家さんやクラフトマンを迎え、クラフト展が開催され、今年は41組のクラフトさん達にご参加していただきました。津山市西今町の出雲街道沿いに、並んだクラフト展では陶芸・刃物・手芸・木工・アクセサリーなどがありました。
ステージ広場では...幼稚園・保育園・小学校の発表や紙芝居などがありました。そして「城西お宝さがし(スタンプラリー)」は、会場周辺にあるお寺、大正時代の建物、神社など回りました。
宮脇町には5基のだんじりが並び、乗ることができたり、鐘を鳴らすことができました。
○安岡町○西今町○宮脇町○坪井町○福渡町
寿光寺では...・津山市立津山西中学校 吹奏楽部による演奏・津山シティブラスの演奏のお寺コンサートが開催されました。来年もぜひ、お越しくださいね。(文:中塚直美)
城東竹灯籠秋まつりが平成23年10月8日(土)17:00~21:00に、城東むかし町家・城東観光駐車場でありました。出雲街道沿い(西新町・東新町)には灯籠が並び、街道沿いのお店も特別に開店していて、年配のアマチュアカメラマンが盛んにシャッターを切っておられました。
未来に架ける人の輪・音の輪 第8回 津山国際総合音楽祭「復活」~音楽の原点を求めて~
2011年8月28日(日) 市民コンサートⅠ日本音楽コンサート
日本音楽コンサートが津山文化センター 大ホール( 10:00開演)でありました。市民邦楽団体が日頃の成果を発表する市民コンサート。
出 演 : [団体名]
当道音楽会岡山北支部、 (社)岡山県鶴山吟友会、橘流、出雲街道津山城東音頭保存会、安来節保存会津山支部、 宮坂流津山銭太鼓保存会、日本舞踊 東嵩会、 都山流尺八美琳会、筝曲・千草会、泉洲流雄心吟詠会、 日本舞踊 富継会、日本舞踊 花柳流十の会津山、箏曲集邦会、 本舞踊 雅会、日本舞踊 藤間流市舟会、民謡三橋流美智若会、松若流新舞踊 聖会、菊水流剣詩舞 津山地区会、津山鶴丸太鼓、日本舞踊 こむらさき会、鶴山桜太鼓
<最初の三界萬霊塔-千人塚->
江戸時代、津山藩では、はじめは罪人の処刑場は城下町西はずれにある筋違橋の外側にあったが、その後処刑の場所は川辺河原又は兼田河原になった。兼田は城下町の東部の川崎村の一部で加茂川の西岸に位置し、この場所はまた出雲街道の渡し場でもあった。往来の多い所へ刑場を設けて、みせしめにするという意図があったためと思われる。
川辺河原、兼田河原での処刑の記録は数多く残されている。
多くの罪人が怨念を抱きながら生命を捨てた兼田河原に、いわゆる千人塚が建てられたのは寛政2年(1790年)で、高さ5尺余(1.5m)の塚の正面に「妙法 三界萬霊塔」、側面に願主としての「泰安寺剛誉、地蔵院大賢、本願寺神宗」、裏面に願文が刻まれている。願文の要旨は次のようである。「作州津山領の川崎村兼田に石碑を創建して有罪の亡魂を供養回向しようと欲する。時に寛政2年庚戌、2月吉日。」萬霊塔を創建して供養する。
この功徳をもってあまねく有罪の亡魂を導いて一切の満霊が同じく覚りの路を登らんことを願うものである。
時の藩主は康哉で、願主の三寺は松平家とは特に関係が深く歴代藩主はしばしば参旨した。
なお、その後も引き続いて明治初年までこの地で処刑が行われた。
▲多胡酒店裏側(2011.6.14)↑写真提供:多胡益治さん
津山城をつくった森の殿様の頃から、高瀬舟がこの辺りまで来ていました。「川を下って西大寺」という、はやり言葉があったほど、ここから米やまきや穀物を積んで西大寺まで舟が行きかっていました。
ここの船着場は、舟から人や荷物のあげおろしをすることができやすいように、きちんと整えられていたそうです。そばに立つ高灯籠(たかとうろう)からは、当時の人々の願いがわかります。
「金比羅大権現」・・・航海が 安全でありますように
「天照皇太神宮」・・・天気が おだやかでありますように
「木山牛頭天王」・・・悪い病気が はやりませんように
「中山太神宮」・・・この土地が 栄えますように
河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。
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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)
荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。
▲中須賀船着場石灯籠(2011.4.10)
中須賀は、吉井川の船便を利用し、下流にある備前国との交易をする物資の集積地として、また宿場町として栄えた地で、出雲街道の要衝のひとつであった。
ここにある三基の灯籠は、航路の安全を祈る為に建てられたもので、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(明治元年11月吉日)の石灯籠が、また、吉井川沿いには金比羅宮(嘉永7年10月吉日)と刻まれた石灯籠が建てられ、常夜灯として昭和10年代頃まで各家順番で点火していたということである。
その後、これらの石灯籠は、河川改修によりこの場所に集められ、現在に至っている。久米町教育委員会(2011年4月10日、中須賀船着場の看板より)