河面 今も祀られている戦死武者の墓

yoshida12.jpg 
 河面下山地区の丘陵部は、かって武家時代の合戦場であった。尾根伝いに平家ゆかりの城であった新宮城につながっていること、周辺の見通しのよい高台であること、東西の真加部街道や南北の加茂谷に通じる道の要衝であったことなどによって、この周辺が勢力争いの場となって合戦が行われたと考えられる。(2012年1月28日取材)

yoshida7.jpgyoshida11.jpg
 萬屋と言われた吉田家の東隣りの山際には、源平の戦いにより、新宮城で敗死した武将を慰めるためお堂が設けられ、「若宮様」として今も祀られている。
yoshida9.jpgyoshida10.jpg
 また、そのお堂の背後には、朽ち果てた感じのお墓があり、侍頭のものと言われている。そしてなによりも、すぐ上の平坦な草原の南端に、粗末な川石を並べただけの十余りのお墓があり、この辺りで戦死した武者の墓として祀られている。芭蕉の句、「夏草やつわものどもが夢のあと」を彷彿とさせる景観と言えよう。この無名戦死者の墓の記録はないが、いつごろのものであろうか。
kawara.jpghaka.jpg
 歴史的に、新宮城並びにこの周辺が戦場となった時期は、三度あると考えられる。初回は、源平合戦の時代で、平家方の木下一族の守る新宮城が梶原景時の軍勢に攻められ、激戦の末に落城した1184年のときである。第2回は、南北朝時代で、守護大名の赤松と山名の勢力争いに、作州が巻き込まれ、赤松配下の菅家一統が山名勢と1360年以後何回か展開した攻防戦の時期である。第3回目は、戦国末期の毛利と宇喜多の勢力争いで、毛利方に繋がる三星城(林野)や、岩尾山城=医王山城(吉見)をめぐって、激戦の攻防戦が展開された1579年から80年のときである。
古い五輪塔もなく江戸時代の墓も近くにあることから、このうち、もっとも可能性が高いのは、3回目。戦国末期の宇喜多勢による美作侵攻の時であろう。

 「三星軍伝記」「美作太平記」「美作古城史」等によると、三星城落城により、城主後藤勝基は自害したが、娘婿の左馬助政基や女子供を守る一行が岩尾山城を目指し落ちのびた際、宇喜多軍に追いつかれ、近くの野田原あたりで戦闘があった(1579年)。真加部街道をたどった際、ここはその延長線上にあった。
 また、宇喜多の侵攻に対し、毛利方の防戦となった岩尾山の合戦では、周辺の前線基地での攻防戦が展開された(1580年)。とくに、近くの楢でも激戦が展開されていることから、この周辺の戦闘も想定される。

 三星城落城の際か岩尾山合戦か、このどちらかに関わっての合戦の戦死者と考察されるが、後の検証を待ちたい。それにしても、親から子へ子から孫へと伝わり、地元住人により今にして祀られている信仰心には、敬服に値するものがある。戦死武者の墓は、今も祀られている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)