川港が栄えた町楢の今
▲多胡酒店裏側(2011.6.14)↑写真提供:多胡益治さん
津山城をつくった森の殿様の頃から、高瀬舟がこの辺りまで来ていました。「川を下って西大寺」という、はやり言葉があったほど、ここから米やまきや穀物を積んで西大寺まで舟が行きかっていました。
ここの船着場は、舟から人や荷物のあげおろしをすることができやすいように、きちんと整えられていたそうです。そばに立つ高灯籠(たかとうろう)からは、当時の人々の願いがわかります。
「金比羅大権現」・・・航海が 安全でありますように
「天照皇太神宮」・・・天気が おだやかでありますように
「木山牛頭天王」・・・悪い病気が はやりませんように
「中山太神宮」・・・この土地が 栄えますように
▲櫻橋 ▲この家は明治初期に建てられた大地主の家。
▲明治の初期に建てられた家
因幡道と楢の町並み
玉琳塚(ぎょくりんずか)の麓附近から出雲街道と分岐した因幡道は、石灯篭のすぐ南を斜めに上がり、ほぼ現在の道に沿っていた。往時、小さな村にしては多い40戸が軒を連ね物資の集散地として栄え、「こうや」「美濃屋」等、屋号を残す家も多い。また、「茶屋」もあったという。つきだした庇(ひさし)が旅人の目を誘った(いざなった)伝統空間も、みえてくる。(案内板より)
なまこ壁の残っている明治の初期に建てられた家
▲土塀の残る家
▲このすぐ左が船着場
▲米を出すときに使用された道の脇にあった菓子屋の家主が多趣味で花を植えたり、さくらの時期は川に舟を浮かべて花見をしていたという。
▲古い造り酒屋
▲古い造り酒屋(当時は米蔵があった所)
▲中国銀行楢支店址
▲昭和初期に立てられた公会堂(現在も使われています。)
▲医者の家で当時の門燈が残っている。 ▲石積みが残っている古い造り酒屋。
▲古い造り酒屋横の搬入口
▲大地主の墓地 ▲墓地へあがる石段
明治4年(1871)の楢村の戸籍から拾った村人の職業を見ると全戸数は47戸でそのうち30戸が商いにかかわっており、純農家はわずか12戸で全戸数の4分の3は商業である。
筏稼ぎは、高瀬舟の船子をしたり、上流で伐採した材木を流す筏師であろう。これは季節労働だから農業や茶屋と兼業である。次に多いのは商であり、様々な商品を高瀬舟で上下して商っていた人たちであろうと思われる。豆腐製造などは自家商売ではあるが、商品を近隣の村へ持って行って売る行商も行っており、大工や屋根葺き髪結いなども他の村へ出かける仕事である。
酒造業や水車稼ぎは江戸時代すでに村で小物成を負担している。
倉庫・空室が9件もあるのは以外だが、明治になって人々の移動が多くなったことや仲買商人の倉庫など、問題になった江戸期の米置場もこの時は残っていたと思われる。
旅館や料理屋、菓子屋などは村に来る人々を相手の商売である。小村に医者が2軒もあり醤油製造も2軒あって、村はそれでも商売が成り立っていくほどの賑わいであった。
人々の過半数は江戸末期からの商いを続けている人たちで、楢村は様々な商人が集まって周辺の農村地域の商業の中心地としての役目を果たしていたのである。明治になって職業や居住が自由になると人々は一気に商いを広げていった。
楢村の賑わいを示すもう一つの興味深い資料がある。それは、年の暮れの時期を見計らって正月用と思われる餅米を積み下げようとして役人にとがめられた商人の例である。この件は70~80とうものもち米を40人余りから集めて川下へ積み下げ売り払おうとしたのである。この件は、積み下げの量の多さとともに広範囲から集めていること、および処罰者の中に庄屋が3人も含まれていることに注目したい。
津山藩はこの期になると農村からの年貢の収納も予定どおりには進まず、城下周辺の農村は大商い小商いが定法を無視したように行われるようになっていた。藩は度々法令を出し、見せしめに処罰するが実効はなかった。この件でも村の責任者である庄屋も十俵もの米を売ろうとしている。その他の者も年貢以外にかなりの量の餅米を保有していたことがわかる。加茂川の高瀬舟航路に当たる村々の農民に限ってみれば、農民にそれだけの余裕ができていたのである。
この件の背景には津山領内で以前からすでに商品経済が進んでいて城下と周辺の人たちの商いについて、町分と在分の境界が崩れ、とくに東の林田村辺りなど城下町付近の農村では町分と在の商人が盛んに交錯していた。藩はこの状況についてたびたび警告を出すが、すでに守られなくなっていた。藩は時折見せしめにこのように捕らえて罰を加えている。津山市史に町端在町林田の商人の活発な活動に対して「お上を恐れぬ商人」と表現いている。この件もまさにそのような活発な商業活動の一端と見ることができる。
彼はこの時だけ大商いをしたのではなく、何回か商いをしていた中でこの時は運悪くお咎めを受けたと解すべきであろう。彼も見せしめの処罰を受けたのである。当時の楢村では多くの物資を扱う商人は何人かいたことは間違いない。
江戸時代在町の商いについての記録は少ないが、明治になると楢村では商いの様子を示す資料がいくつかある。提出の目的は不明であるが、役場が商業の現況を報告させたものか、または、営業許可を求めて堤出した営業種目もあるかも知れない。
明治になって京都の人が発明したといわれる人力車をはやくも取りいれている。
〒物・石炭・石炭油(石油)・書籍・洋小物など近代化した物も既に扱っている一方で鬢付・元結などのように古い商品も売られ、牛馬市を開く責任者(村役)も2人見えて文明開化の文物・世相をすでに取り入れ新旧の入り混じった変革期の様子が見えて興味深い。まだ鉄道や道路も整備されていない頃に高瀬舟の交易によって楢村商人が時代を読み、商売で先を読む目を持つようになっていったといえる。多種多様の物を扱い、今でいうスーパーか百貨店の役目をして当時の人々には便利な存在の雑貨屋も4・5軒ある。川漁や行商も多い。他の店と同じような物を扱っていても商売が成り立っていたことは驚きである。
楢村は周辺から多くの人が集まってきて活況を呈し、地方の中心的な町に発展していた。明治初期、周辺の農村でもすでに衣食住の様々な多くの日用品が必要な生活に変わっていて時代の転換が肌で感じられる。この頃が楢村の最盛期であり、暫くすると鉄道の開通などによって高瀬舟通運は衰えていく。
(文:多胡益治さん)