作楽神社 古筆感謝祭(神戸)
2019年1月14日13:00~、岡山県津山市神戸にある作楽神社の境内に於いて、達筆であった後醍醐天皇と児島高徳にあやかり、古筆感謝祭(筆まつり)が行われました。
地域住民の方々が綺麗に洗った使い古した筆を持参して神事の後、とんど行事と合せて焼却しました。
2019年1月14日13:00~、岡山県津山市神戸にある作楽神社の境内に於いて、達筆であった後醍醐天皇と児島高徳にあやかり、古筆感謝祭(筆まつり)が行われました。
地域住民の方々が綺麗に洗った使い古した筆を持参して神事の後、とんど行事と合せて焼却しました。
城西地域の中で北西の位置にあり、市街地から少し外れた丘陵地の見晴らしの良い高台にあります。戸数は100戸少々で東西に長く、面積はかなりあるものの家は点在し坂道が多いです。
昔は30戸余りの野菜栽培の専業農家ばかりの小さな町内で、畑地帯で市民の台所でしたが、町の中心部に近いことから新興住宅地として戸数もどんどん増え、今は農家は少なくなりました。笠松地内に西陵団地ができ、やがて独立町内になりました。
笠松の名前の由来は江戸時代この地帯は大きな松が茂り笠のようであったということでです。その松は今は全く無い畑地帯になっています。山を切り開いて畑にしたので山畑地帯とも呼ばれています。
時は室町幕府が出来て間もない南北朝時代、播磨を拠点とする赤松氏と山陰の雄山名氏が美作の国の領有をめぐって争っていた時である。
正平15年(北朝文和5年 1360)美作の守護赤松貞範は山名時氏を攻撃して篠茸城(久世)、高田城(勝山)、院庄城(津山)、神楽尾城を落とした。その後、神楽尾城は赤松入道世貞が守っていた。
お福大明神 -津山市一方-
嵯峨井堰の土手は、何度築いてもくずれてしまう。困りはてた村人たちが相談したあげく、水神様のたたりだから人柱をたてようということになった。四方八方手をつくして、人柱になってくれるむすめを探したが、どうにも見つからない。
そこへ、川向こうの院庄村のひゃくしょう八助のむすめお福が、十何か村のおひゃくしょうのためならと名のり出た。十六の美しいむすめであった。
お福が人柱となってから、土手がくずれることは一度もなく、村人たちは小さなほこらをたて、お福をまつった。これがお福大明神で、今は佐良神社にある。(文:『岡山の伝説』より)
和歌神社の由来
美作や久米のさら山さらさらに
わが名は立てじよろづ代までに
今から一千余年前清和天皇が即位されて最初の新嘗祭に神に供える穀物を奉納する国として美作の国が定められた。その貢物の献進に際し美作の国歌として奉唱したのがこの歌で古今和歌集にも記されている。以後、"久米のさら山"は一躍世に出て名所となり、やがて平安時代の和歌全盛期を迎えるにおよんで久米のさら山を詠んだ歌は数少なくはない。
和歌神社はこうした和歌の歴史の残る久米のさら山を永く後世に伝えようと修理の太夫顯季卿が美作の国を治めていたとき和歌神をここに祭り和歌の宮と称したことに始まり久米郡誌にも載せられている通りの由緒ある神社である。
なおこの神を敬い祀れば学問が大いに進むことから今では世にひろく崇められている。(文:境内案内より)
平成31年(2019)明けましておめでとうございます。
今年もファンの皆様と偶然でもお会いできますこと楽しみにしながら、ママの追っかけをしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
早速ですがイナバ化粧品店の仕事始めの1月4日にお店に伺ってきました。すでに店内には身動き出来ないほどのお客様でいっぱいです。イナママもすごくお元気で「今年もよろしくねぇ~」とご挨拶。(上記写真はイナバ化粧品店提供)
2019年が始まりました。津山市小田中にある白加美神社の初詣の儀式が今年も厳かに執り行われています。ピンと張りつめた雰囲気の中での初詣の風景です。
平成31年元旦の初詣風景です。
徳守神社の初詣の参拝者は境内入り口鳥居の外に続き行列となっていました。境内ではお焚き上げの炎の近くで若者が大勢集まっています。また、おみくじやお守りを買い求める方で賑やかです。今年が皆様にとって良きお年となりますように。
当社の由緒については諸説あるが、徳守宰相を祀る「勅使宮」であるとする『森家先代実録』『作州記』等の説と、天照大神を祀る「勅旨宮」で天平以前の鎮座とする『美作風土畧』等の説との二つに大別できそうである。矢吹正則は『徳守神社誌』において「伊勢神廟ヲ勧請シ奉リシモ古キ御事ニテ一度皇太神ヲ合祭シ奉テハ之ヲ主神ト仰キ奉ルハ尊神ノ衷情二出シモノニテ敢テ祭神ヲ左右セシモノニハ非ルへシ」と合理的に解釈している。古代の総社宮での重陽祭では、幣を奉納する近郷八社の一つであったという。
天文8年(1539)に焼失したが、慶長9年(1604)春、森忠政が築城に先立ち、津山の鎮守として徳守神社を再建、同年内に落成して遷宮され、新田村において70石の社領を寄附された。2代藩主森長継は寛永14年(1637)さらに10石を加増し、寛文4年(1664)に社殿を新築した。現在の本殿・釣殿・拝殿がこれに当たる。
天保五年庚午の年、師走の十五日丑三つ時だった。慌ただしく戸を叩く音に、じいの種右衛門が目を覚まして出て来た。戸をあけると三人組の強盗が押入って来てすぐとっ捕まえられ、次ぎ次ぎに家人をおこして、みんな高手、小手にしばり上げられ、さる口輪をはめられた。家の中をあちこちと探り廻りめぼしい品物をみんな集めた。強盗は三人組であったが外にまだ何人かいるらしい様子だった。衣類や貴重品を出させたが、目ぼしい品物がなかった。蔵をあけて中の品物をとろうと思って、蔵の鍵を出させて蔵をあけようとしたが、この鍵は特殊な鍵で、コザルが五個合わないとあけられない。強盗はあせって誰かこの鍵で蔵をあける奴はいないかと言うた。その時ーウタおばあさんが「妾があけてあげる」といった。強盗はウタおばあさんをほどいて蔵につれていった。