山名時氏 極楽山安養寺を修す
時は室町幕府が出来て間もない南北朝時代、播磨を拠点とする赤松氏と山陰の雄山名氏が美作の国の領有をめぐって争っていた時である。
正平15年(北朝文和5年 1360)美作の守護赤松貞範は山名時氏を攻撃して篠茸城(久世)、高田城(勝山)、院庄城(津山)、神楽尾城を落とした。その後、神楽尾城は赤松入道世貞が守っていた。
安養寺へ続く道から神楽尾を望む
翌、正平16年(1361)山名時氏は大軍の兵を興して、その勢いで神楽尾城を攻め落とした。その際、神楽尾城の見える安養寺に武運がありますようにと祈願し、寺院を修築したということである。
また、安養寺には八幡祠が祀られているが、もと神楽尾山にあったもので、城塁を鎮護する神を祀ったものである。(現在は田神社に合祀されているそうです。)神楽尾城が廃城になったとき、祠をこの寺に移したということである。(作陽誌上巻参照)
現在、安養寺では木下住職によって毎年旧暦9月28日か11月の申日に、天剣大明神(神楽尾山)のご祈祷がなされる。(文:『美作の中世山城神楽尾』より)(撮影:2019年1月5日・13日)