ウタおばあさん奮斗記『山西の民話』

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 天保五年庚午の年、師走の十五日丑三つ時だった。慌ただしく戸を叩く音に、じいの種右衛門が目を覚まして出て来た。戸をあけると三人組の強盗が押入って来てすぐとっ捕まえられ、次ぎ次ぎに家人をおこして、みんな高手、小手にしばり上げられ、さる口輪をはめられた。家の中をあちこちと探り廻りめぼしい品物をみんな集めた。強盗は三人組であったが外にまだ何人かいるらしい様子だった。衣類や貴重品を出させたが、目ぼしい品物がなかった。蔵をあけて中の品物をとろうと思って、蔵の鍵を出させて蔵をあけようとしたが、この鍵は特殊な鍵で、コザルが五個合わないとあけられない。強盗はあせって誰かこの鍵で蔵をあける奴はいないかと言うた。その時ーウタおばあさんが「妾があけてあげる」といった。強盗はウタおばあさんをほどいて蔵につれていった。


 蔵には質屋であずかった質草(種)が一ぱい入っていた。強盗は用心して三人のうち一人を家人の見はり番とし、二人で蔵に来た。二人が蔵に入ったのでウタはこの時蔵の戸を閉めてやろうかと思ったが、まてまて賊は三人、二人を蔵にとじこめてもあとの一人が何をするやらわからん。ここでへんな事をしてやぶへびになる。もっとよい方法があると思い返してじっと蔵の戸口にまっていた。賊は「ばばあ、何かつつむ風呂敷を出せい」とどなった。そこでウタは心得たと早速に家伝来の染ぬきのある紺風呂敷をだしてやった。賊は「ばばあ、中々気のきいた奴じゃ」と言ってみんなよろこんで大きな風呂敷包をこしらえて背おうて家をあとにした。


 ウタおばあさんは「フン、いまいましい強盗なんかに、お客様の大事な品物を渡してなるものか」と決心して、家人の救出もほっといて強盗のあとを追った。ウタの勘の通り強盗は飯山を越えて因幡に出る様にと道をえらんでいた。月下の下、三人の強盗は大きな風呂敷をせおって田んぼの向の道を飯山に急いでいた。ウタおばあさんは「おくれてなるものか」とはだしのままだったが一生懸命におっかけた。飯山をすぎ上げ船をこして堀坂を過ぎる頃、鶏が鳴くのがわかった。夜明けも近いぞ。もうすぐ夜があける。夜があけたらなんとかなると、心にいいきかせながら、強盗のあとを追った。加茂の町まで来た時、夜は完全にあけた。強盗は町かどの宿屋に入った。


 ウタおばあさんは、その強盗が宿屋に入るのをじーっと見とどけてから、自身番(番所)に訴え出た。番所の役人が不審に思われたので一部始終を物語った。番所の役員は「はっあー、何か証拠のものがあるか」と言ったので、ウタおばあさんはここぞと「それは確かなものがあります。賊の持っている風呂敷包は家伝来の紺ブロシキ、家号も入っている品物、篤とおあらため下さい」と申しました。ようし、それならと宿屋にふみこんで三人の強盗をただちにとり押えたものでした。強盗も一言の文句も言えず、平身低頭、只管にわびを入れたとの事で、めでたし、めでたしでした。
 家内主人の種右衛門も家人一同大喜だったか伝えきいた里人もこのウタおばあさんの機智にとんだ而も剛胆な処置にアッと舌を巻いたと言う事である。


 このウタおばあさんは種右衛門の妻で備前の塩田林万波弥平治の娘であり、後の洋学研究家の大家箕作阮甫のオバサンに当たるといい、むべなる哉、偉い人の血すじだとみんながうなずいたという事である。
 ウタおばあさんはこの事があったのは私の力ではない。荒神様の御神助があったのだといって爺にすすめて、森屋荒神に燈楼一基献上した。今も乙宮神社の正面の横に小さな燈楼が一基ある。その下に天保六年辛末十月氏子中華未とあるのはあえて自分の名をかかず氏子中としてあるのである。その横の水鉢も御家本家から初代民右衛門永一が前田(地名)に長男でありながら分家した時の、森屋荒神(お竹大明神)に寄進したものである。今も氏神乙宮大明神の石燈楼の左手に水鉢と燈楼が寂しく立っている。これをここに持って来たのは大正の初頭、父が部落長をしている時、当時の方針にもとづいて神社合祀をした時、お竹大明神(荒神様〔無資格社〕)であったので村社の乙宮神社に合祀したものである。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ


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