昔の津山の様子です。
吉井川の様子(高瀬舟です。)
津山市在住の塩山さんからご提供いただきました。(2013.1.10)
津山の様子がよくわかる貴重な写真ですね。津山も随分変ったものですね。
吉井川の様子(高瀬舟です。)
津山市在住の塩山さんからご提供いただきました。(2013.1.10)
津山の様子がよくわかる貴重な写真ですね。津山も随分変ったものですね。
2013年1月5日の吉井川に架かる城見橋の右岸側の河川敷で、「体長60cmを超える大きな鳥、羽を広げると1m50cm位になるだろう珍しい鳥が群れていたので撮影しました。とても人なつこくて2m位まで近づいても逃げなかった。」そうです。(情報下さったのは津山市小姓町にお住まいの小川宏さん)
詳しいことが解らないので、自然と人間をテーマに、社会的視点にたった「自然界の報道写真家」として活動中の宮崎 学さんにお問合せをしましたら、
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「サカツラガン」です。
日本には昔から渡ってきたようですが、数は少なく、近年は非常に珍しいガンになっています。今冬は、20数羽で飛来したというようなことがネット情報に流れていました。
動物園などでみられる「ガチョウ」ですが、あれはこのサカツラガンを家禽化したものです。サカツラガンは美味しいので、世界的にかなり乱獲が進んでいるようです。
絶対的に数が少ないので、日本にやってくるのも稀になってしまったようです。
いずれにしましても、幸運な出会いをしたと思います。
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宝蔵寺
当寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。文化十二年(1815)頃には、無住寺で本堂四間四面南向、庫裏四間半八間、鐘堂、長屋、鎮守山王権現小などを残すのみであったが、「東西百間余、南北二百間余」の広い境内や、東林房、安養房、惣門などの旧跡が残存し、かつての大寺の面影を残していた(『東作誌』)。
二尺七寸の本尊大日如来坐像、脇立の不動明王と毘沙門天はいずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)に『東作誌』に記録されているものであろう。(加茂町史より)2012.12.13取材
黒媛伝説
黒媛は吉備の海部直の娘で、容姿端麗であったために都に召され、仁徳天皇の寵愛を受けながら、皇后の磐媛の嫉妬にあい故郷である山方(形)の地へ帰された。その黒媛を慕って仁徳天皇がわざわざ草深い山方(形)を訪れ逢瀬を重ねたという古代のロマンスが「古事記」に載っています。
この伝説は、八幡神社の由緒にも記されています。そして、この水原古墳は「黒媛」の墓(黒媛塚)だとされており、他にも山方(形)地内には、黒媛が住んだ所といわれる地名などが今も残っています。古歌にも仁徳天皇が山方(形)の地に黒媛を訪ねたときに詠んだ歌、黒媛が返歌を詠んだものなど、この地にゆかりの深いと思われるものが少なくありません。
昭和12年4月、この古墳が発掘されたことは勝北町誌にも掲載されていますが、当時の出土した陶棺などは、現在、東京国立博物館に保管されています。2012年10月25日取材(文:看板より)
金峯山修験本宗 長命山 多寶寺
往昔の吉備中山は和歌題詠の名勝であった。その中山の麓山形の地に、長命山 多宝院とと唱へる修験道場があり、慶長年中津山の城主森美作守忠政が、津山城艮の鬼門除祈願所として、陣具を奉納せられたとの傳があり、現在津山市大谷の石山摩利支天も此時に祀られたとのことである。昭和年中より文化年代に渉っての住職、七代目大僧都宗春、八代目権大僧都宗栄の二代は、相続いて苦行を修し、厄難除けと併せて、女人安産に霊験顕著であった。その為め世人の崇敬を受け、隆盛の道場であったが、慶応年中には無住となり、堂宇破損ついには風の為め倒壊するに至ったのである。當時堂内にあった佛像はこれを字水原に移し、小堂を建てて保存したのであったが、寺跡は明治以降山林と化し、其後周辺は開墾されて畑となり、僅かに寺号のみが傳へられたのであった。近年に至って宗教法人法附則第五項の規定によって、県知事の認証を得、昭和二十七年十一月十三日登記手続きを完了、寺号を長命山 多宝寺と号し、旧時の遺跡である、山形東俗称宇根の地に堂宇を建立、金峰山修験本宗に所属し、住職は管長の任命によって、大阿闇梨僧都孝範が就任し、再來天下泰平万民豊楽の祈祷を執行、毎朝鳴り渡る法螺貝の音は、那岐連峰にこだまして、勝北平野の静空を流れ、八万四千の煩悩の夢を覚して居るのである。(文:新野村史より)2012.10.27取材
2012年の大晦日~2013年の年明け、毎年恒例となった津山市小田中の「年忘れ花火大会」が、 今年で20周年を迎え、盛大に打ち上げられました。 お餅つきをしたり、そば、やきいも、お雑煮他いただき、帰るころはお腹一杯でした。冬の花火もいいものですね。お世話くださった各町内会の皆さまありがとうございました。
2013年1月3日のイナバ化粧品店内です。みなさん、あけましておめでとうございます。
イナバ化粧品店内は、訪れたファンの皆様の元気一杯の声で「はい!ビーズ!」。店内ではアメリカツアーのビデオが流れていて、ファンの皆さんが熱心に観ておられました。また、今年の稲葉家のお正月は、例年のごとく訪れる人で賑わったそうです。
由緒沿革
そもそも梶並の庄は、岡山県の東北端にあり、北は峯続きに鳥取県に連なり、東は英田郡大原町・西粟倉村、降って作東町に接し、西は勝田郡奈義町に続いている。作陽誌の示す所によれば「元梶並庄は一村であったが、東谷・中谷・西谷と三村に分って居り、慶長以来叉十邑に分つ」とあり。
梶並神社の創立は何れの時であったか、その真相をつかむ事は困難であるが、「美作国神社資料」によると〝或は伝う〟として推古天皇の十五年(六一三)丁卯春二月、山川幽明の霊地として高お神(たかおかみ)を祭り、郷土の鎮護としたものとなっている。
本社には、次の諸神が奉祀されて居る。古よりの祭神は、高お神(たかおかみ)、相殿には、経津主の命(ふつぬしのみこと)、武雷の命(たけいかづちのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、息長足姫(をきながたらしひめのみこと)(神功皇后)、比賣大神(ひめがみ)
次に境内社として祀られているものは
磯神社 少彦名命(祭日十月二日)
高良神社 武内宿弥(祭日十月二日)
稲荷神社 宇賀之御魂名(祭日十月二日)
神々のうち、古より武雷命・経津主命が祭られているが、此の二神の首字をとって、神山を武経山と名づけられ、後になって武男山と改められたと伝えらている。(文:梶並神社誌より)2012年10月6日取材
菩提寺略縁起
当山は、お念仏「南無阿弥陀仏」の元祖で、浄土宗を開宗されました「圓光大師法然上人」が、初めて仏教を学ばれた聖域にして、浄土宗史蹟であります。
その草創は、持統天皇(41代)朱鳥6年(692)役の小角神変大菩薩が名木の神山(那岐山)に霊地を求め、この地に修験道場を開き、後に天平年中、聖武天皇(45代)の勅願によって行基菩薩が自ら十一面観音像を刻んで中堂に安置し、「元明天皇(43代)の菩提寺」として再興開基し、七堂伽藍三十六僧坊を建てめぐらし、四宗兼学の学問道場として各地から学僧が蝟集し、その興隆数百年に及んだ。
その間"法相""天台""浄土""真言"と各宗変遷をたどり多くの名僧を輩出したが、殊に法然上人(幼名勢至丸)9才(1141)から13才まで、父漆間時国公の遺言によって、母方の叔父、勧学得業上人のもとで学問を始められた史実は、勅修「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)に伝えられる処です。
往古の伽藍の様相を、僅かに残る中古の記録によると、'本堂九間四面""観音堂五間四面""鎮守堂四間四面""不動堂二間六面""鐘堂二間四面""通堂九間"等々記されており、広大な規模を彷佛とさせられるものがあります。
数百年の繁栄も、この地が険要であったが為、地方豪族の拠点として菩提寺城等の城砦を築き、戦国乱世に頻りに災禍を受けてついに天文2年、尼子義久の焼打によって、悉く灰燼となって以来衰微の一途を辿り、江戸末期僅かに残る草庵も焼失し、無檀、無禄につき復興のめどなしとして、一旦は廃寺となったが、法然上人遺蹟地の故、明治十年寺名再興浄土宗復宗の官許を得て作因両州近郷近在の檀越、信徒共々信心を凝して本堂再興(明治十三年)、以来現在に及んでいる。
1、本尊:十一面観世音菩薩 座像、嵯峨大覚寺から文久元年招来。
2、阿弥陀如来:芝増上寺から蔓延元年招来
3、勢至丸像:勢至丸様(法然上人幼名)の霊像で、阿弥陀如来と共に奉納された唯御一体の圓光大師少年姿、冷泉為恭の作。
4、守護神:摩利支天王を勤請し、境内の守護神として巌上に御鎮座
5、観覚塚:勢至丸様初学の師、観覚得業上人の御墓、熊谷蓮生(直実)の建立と言われる、石塔は近年の建替え。
6、大公孫樹:勢至丸様9才入山の際携えた、いちょうの杖を「我、未来に弘めんとする法門盛んならば、必ず繁生せん」と本尊に誓って挿し木したと伝えられている。
果たして念仏の興隆と共に繁茂し、目通り13m余高さ40m余の巨樹となり、昭和3年国の天然記念物に指定された。
資料提供:高貴山 菩提寺(2012年11月14日取材)
神社の祭祀
古代の祭祀については、知る由もないが、石奇清水八幡宮の勧請以来は、自他共に許した社格をもって、それまでの伝統をも活した祭事が行われた事は当然の事で、神社誌の考証等によれば、「放生会」や「御輿の渡御」「もこしまつり」等の行事が行われたと述べている。
ところで、「由緒」と沿革の中にも示している通り、戦国時代の終わり頃、社領が没収される等の事によって、祭典のしきたりも改めて行うというような結果となり、ここに頭(當)人祭と称せられる祭の様式がとり入れられたと理解すべきだろう。
頭(當)人祭に就ては、当社に残る最古の記録として「八幡神社五度の祭年々頭人留置 享保十八年癸丑正月吉日」「社頭第一重職 横山 右衛門佐」と記された簿冊により、構成や様式、経過等について織る事が出来る。(梶並神社誌より)
岡山県重要無形民俗文化財
創建千四百年の歴史を物語る奇祭
梶並神社当人祭
平成24年10月6日(土)美作市梶並123梶並神社境内
当人様(生き神様)が参道にひれ伏した参拝者の背中をまたいでゆく、またがれた者はその一年無病息災であるという
(情報提供:梶並神社)