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取材記事内を検索ワード「公園」で検索した結果,541件の記事が見つかりました。

【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)

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 駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)

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津山城ひなまつり2018

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 2018年3月7日津山城(鶴山公園)三の丸にある鶴山館にで津山城ひなまつり(2018年3月3日~3月11日)が開催されており拝見してきました。明治初期の雛飾りや可愛い市松人形も飾られていました。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代のお雛様で見ごたえあります。その他、沢山の格式高いそれぞれのお雛さま達が今年も楽しませてくれました。今年はB'zの看板が飾られていて(ひな祭り期間中は勿論当分の間)何だか得した気分になりました。(2016年の雛祭り)

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2018年1月14日津山の雪景色です。

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2018年1月14日の津山の朝の雪景色です。今年は全国的に寒さが半端じゃない冬となりました。津山でも度々雪が降りましたが、全国の大雪となった地域の方に比べれば少ない方でしょう。津山城の石垣に積もった雪と朝日のコントラストがいいなぁ~と思い撮ってみました。

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2015津山さくらまつりのイベント

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 2015年4月1日~15日恒例の「津山さくらまつり」の様々なイベントが開催されました。今日はあいにくの小雨が降っていますが、太鼓ショー&備州岡山鉄砲隊、宝蔵院流槍術、コスプレ、伝統芸能交歓会などが賑やかに行われました。また、美作のグルメと観光展もあり、津山ホルモンうどんを始めとして、津山そずり鍋、まほらプリン、津山じゃあじゃあ麺、津山黒豚餃子など津山の名物が沢山並んでいました。その他にも、お茶席やちびっこ広場など家族で楽しめる企画もありました。(2015年4月4日・5日撮影)

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県立明石公園と明石城

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 明石公園とは、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。
城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。
園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。
平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。(文:明石公園HPより)(2017年11月26日撮影)

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旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎(久米郡美咲町)

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旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎 1)交通/鉄道 2)久米郡美咲町吉ケ原432-1 3)昭和6(1931)年
 片上鉄道は、柵原鉱山の鉱石を輸送するため、大正8年(1919)年に設立されました。大正12年1月に片上-備前矢田間を延長した後、昭和6年に柵原まで開通しました。鉱山鉄道としてのみならず、地方鉄道として住民にも利用されましたが、平成3(1991)年に廃止となりました。
 吉ケ原駅は三角屋根の洋館風駅舎で、保存もよく、現在は鉱山資料館の一部として公開されています。

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鶴山 慰霊碑(美作忠魂碑)

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美作忠魂碑
 美作五郡の各寺院が、よくまとまったのは地理的にも北条県の伝統があるが、実はすでに明治末年に協力の実績を築いていた。というのは津山町所在の仏教各宗協議所なるものが、本源寺に設けられていた。明治三十八年の十一月、ここで日露戦争の戦死者のため記念碑を建てようという相談ができた。当時苫田郡長をしていた小沢泰にこれをもちかけたところ、町長をしていた矢吹金一郎に相談してやれということになり、矢吹と仏教各宗代表が基礎案をつくった。これが鶴山公園にできた美作忠魂碑の出発であった。結局津山だけのものでなく、美作一円のものにしょうと、神職や有志に呼びかけ募金に着手したのである。費用三千円計画で募金運動をはじめたが難航したようだ。しかし努力が実り、四千三百余円を集めたものの、予定より費用も高くつくので、継続して募金をしつつ、第一回招魂祭を、四十年の四月二十一日にしている。この日が後年毎春の招魂祭の日となった。

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備中櫓(鶴山公園内)

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備中櫓は天守台の南東、本丸南面に突出した石垣上に立地する2階建ての櫓です。
 高さ約13メートル、幅約24メートル、奥行き約8メートルで、延べ面積は約288平方メートルです。
60を数える津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
構造
 備中櫓は、木造一部2階建てで屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒廻りも含めて白漆喰塗りです。通常、櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが、この備中櫓の内部は全室畳敷きという特徴を持っています。

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鶴山館(鶴山公園内)

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 これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
 しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。

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嵯峨山の夕日

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 2018年1月2日の美しい夕日です。
久米の佐良山については作陽誌に
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。

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