七位でした。電池きれにて、
2012年9月23日(日)自分たちの地域は自分たちでつくる!第3回「津山"たかくら塾"」が開催されました。NPO法人英田上山棚田団 理事の西口和雄(@かっち)さんを講師に、お隣の美作市、上山棚田への視察をかねて現地開催となりました。当日は、津山"たかくら塾"の塾生5人・高倉自治協議会6人で、その他は幸雲南塾や県内外からの一般参加者の方々が一緒に勉強しました。(「津山瓦版」は、会員さんでもある高倉自治協議会の皆さんを追っかけ密着取材させていただきました。とれたて新米のおにぎりが美味しかったですよ~。高倉自治協議会
●津山市"高倉地域"について
津山市は古くから、岡山県北・美作地方の拠点として中心的役割を担ってきました。
現在も津山城跡(鶴山公園)を中心にした城下町の風情を残しつつ、周辺には豊かな森・水・里山のある、歴史と自然の調和したまちです。
高倉地域は、農村地域としての風景を残しながら、利便性にも恵まれている一方で、
子どもと若者の減少により地域の高齢化が進んでおり、その対策が急務となっています。
2011年10月に、『住んでよし、いってみたい高倉』を目指し「高倉自治協議会」を設立し、市との協働による地域づくりをスタートしました。
地域の資源を活用した絆づくり、仕事づくり、人づくりなどを中心に、交流人口や定住人口の増加による地域の活性化を目指しています。
廣戸神社(大吉字平野) 2012.9.2取材
「美作神社資料」によれば、宝亀元年(770)、山城国(京都府)男山八幡宮(石清水八幡宮)を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と唱えました。その後、文治5年(1189)に廣戸村大吉字宮の奈留に社殿を移し、応永5年(1398)大吉字平野に遷座しました。
祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・大山祇命・武内宿禰・須勢理比売命・志那津比古命・志那津比売命の7柱の神です。境を接して建てられた廣戸神社と五穀寺の境内は、奈良時代から始まる神仏習合(混淆)の姿をとどめています。
(神社と寺院より)※神社よりいただいた沿革は最後に載せてあります。
祭神:品陀和気命 大山祇命 息長帯命
武内宿禰 須勢理比賣命 支那津比古命
支那斗辧命 (大雀命)風神社...
※廣戸神社の宮司さん曰く、風神社は今は自衛隊の基地で着弾場になっているそうです。鳥居の1本が残っているとか。
曹洞宗 清涼山 正覚寺 (2012年6月24日取材)
縁起
当院は曹洞宗太源派に属する寺で、作陽誌には次の通りに記述されている。
本尊千手観音 鎮守春日大明神 本寺夢中山幻住寺 境内東西百七十間南北六十五間となっている。本尊は千手観音となっているけれども現在の本尊は釈迦三尊であり、鎮守は白山大権現である。
久米郡旭町大字北にある夢中幻住寺第二代の住職大庵洞益(1434~1461永享6年より寛正二年まで二十八年間住職)は長禄二(1458)年、今の大字宮部下、久保神社の西隣に地に小さな寺を建て、「普門寺」と称した。しかし此の寺は未だ本山からも認められておらず従って寺格もない平僧地であった。
夢中幻住寺は永禄年中に失火、永禄九(1566)年より天正十九(1591)年まで二十六年間無住、其の後天正十九年に法山存悦が幻住寺に入った。
此の人は元和五(1691)年迄二十九年間住職として幻住寺の復興に尽して功績のあった人である。此の法山存悦が幻住寺復興に尽した経験と才幹をもって宮部地方の人々に説き、喜捨を集めて、寺地を宮部上村の王子に定め、前記の普門寺をここに移して寺院を建設したのである。
であるから此の寺の開基も開山も実際には法山存悦であるけれども、普門寺の開山である幻住寺第二代の住職大庵洞益を迎えて勧請開山に据えたのである。
時代はわからないが法山存悦の幻住寺10色在任中の天正十九年から元和五年に至る二十九ヶ年の間と推定する外ないのであって、かいざんは実際よりも百二・三十年も前に遡って長禄二(1458)年の普門寺の開山そのものが此の寺の開山とされたわけである。
作陽誌(西作誌)は元禄二(1689)年から元禄六(1693)年までかかって森藩の編纂した地誌であってこの頃ではすでに山号(清涼山)も寺号(正覚寺)もあり、本尊は千手観音、鎮守は春日大権現で夢中山幻住寺を本寺とするちゃんとした寺院に成長していたのである。(全文:『 久米町史』より)
曹洞宗 清涼山 正覚寺 本尊 千手観音 (津山市宮部上1663)
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約300年前、東京・中野に広大な犬小屋があった。
莫大な経済的負担とともに、その造営にあたらされた津山藩・森家の人々が、逆境を乗りこえ、崩壊から再興へと生き抜いた姿を、新たな視点から描く。
十八万六千五百石という外様の大藩であったために、幕府の大藩潰しの標的とされた美作・津山藩森家と、江戸城内の「松の廊下の刃傷沙汰」で取り潰された赤穂藩浅野家。時の権力者・柳沢吉保の策謀に翻弄される両家の姿を、お家再興のために尽力する森直長を軸に描いた歴史コミック。
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これぞ本物の武士!
もっともっと、語り継ぎ、広く知られるべき人物です!
「森一族」をご案内いたします。
12月になれば忠臣蔵・吉良邸討ち入りの日がやってきます。
「忠義、武士の誉れ」と伝えられてきた「忠臣蔵」ですが、津山藩・森家の物語こそ今、広く伝えていくべきではと思います。
領民を愛し、その生活を一番に考えた森長直の生涯は、現代の日本の政治家全員の教科書になると思います。
一昨年、出版した作品ですが、全国から「感動したので遠くにいる息子に送りたい」または「夏休みに生徒に読ませたい」という声をたくさん頂き、重版いたしました。一人でも多くの方に手に取って頂けますよう。
㈱小池書院編集部長 匂坂美保
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▲東寺真言宗 清瀧寺本堂 天井の鳳凰図(2012年5月31日取材)
観音堂(本堂)の内部は華麗な装飾が施されています。天井は格子天井で、中央に算仙中村周介の描いた見事な鳳凰図が嵌め込まれています。
2012.4.21
田熊 山頂に位置し祀られている愛宕神社
広野小学校下の小村池を、東に沿って、田熊上土居方面へ至る坂道をあがると、北側の山頂にある位置に愛宕神社が祀られている。丘陵性の山地のため、軽四自動車ならば、坂道を上りきった所からか上土居西山集落の墓地のあたりから、愛宕神社周辺へ行き着くことができる。
この辺りは、付近で一番高い山のため、樹木のない南面の展望がよく効く所であり、まことに愛宕の神を祀るにふさわしい場所と言える。福井の新宮山にも、同じく山頂部に小祠の愛宕様が祀られているが、こうした場所の限定は、愛宕の神の特性を考えてのうえと思われる。
愛宕の神は言うまでもなく、京都市嵯峨の愛宕神社から勧請されたものである。京の愛宕神社は、もともとは、山城と丹羽との国境にあたる鷹峰の地に鎮座し、塞の神としての性格を備えていたといわれている。平安遷都後、比叡山に相対してそびえる愛宕山で祀られた。
火の神の迦遇槌神(火産霊神)を祭神としていることから、鎮火火災の神、つまり都を火災から守る神として信仰され、ついには王城鎮護の神となって祀られた。やがて、多くの修験者たちが山籠りするようになると、愛宕山伏は諸国を遊行し、火伏せの神としての愛宕信仰を広めた。そして、村々の小高い丘を見つけては、そこに分社分霊を勧請してまわった。事例として、NHKの場合、東京港区の愛宕山にあり、その丘の上には愛宕神社が鎮座している。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
(2012年5月7日の衆楽園)衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名されました。
衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。(津山城より)
春夏秋冬いつ来ても見ごたえあります。(過去の取材)
2012.4.21
牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
真福寺(2011.6.24取材) ▲写真2012.4.17取材
瑠璃山日光院 眞福寺の略歴と沿革
当山は、天平12年(740)聖武天皇の勅りにより、太古行基菩薩開創し御本尊薬師如来を奉安され、始めは槍原地内に在って萬福寺薬師院と称していたが、現在地へは寛永年間(1624)移築され眞福寺日光院と改めたがその後、付近の火災の飛火に遭って全焼し寛文8年(1668)檀信徒より木材並びに労務の奉仕等により建立されたものです。
初代清誉上人より今日に至る迄、檀信徒聖霊香華燈明を掲げ、真言密教の寺として法燈を護り伝えて参りました。爾来、375年余の星霜を重ね近年に至っては特に老朽化し、平成5年に議題になり平成7年檀信徒の浄財等により改築を決定した。西暦2000年の節目に完成する。(情報提供:真福寺)★美作88カ所霊場会のホームページ