秀養山 法光寺(津山市西中)
山号は秀養山、日蓮宗で、寺伝によれば、明応年中(1492~1501)日蓮宗津山本行寺の日仙上人が、老後にこの地に隠れ住んで一寺を建立したのがこの寺である、と伝えられます。(勝北町誌「神社と寺院」より)
2012年10月2日取材
随分広い境内です。
自然いっぱい。
本堂の中
本堂と新築された立派な庫裏
本堂の彫り物
鐘楼と水鉢
墓地
箕作秋坪の4代前の応輔の子ども政之助のお墓です。
箕作秋坪の実家に当たる「菊池」家は、秋坪の4代前の応輔を祖として学者を多く輩出する家です。応輔は、もとの名を田原金太夫といい、美作国内に飛び領地を持っていた常陸土浦(今の茨城県土浦市)藩の代官として吉野郡下町(今の英田郡大原町下町)の陣屋に赴任し、退職後に播磨佐用(今の兵庫県佐用郡佐用町)で余生を過ごしました。
彼には政之助という男の子がいましたが、寛延2年(1749)わずか10歳で亡くなってしまいました。金太夫の妻が日蓮宗の信徒だったのでしょうか、当時、美作国内の土浦藩領には勝北郡新野西中村の秀養山法光寺しか日蓮宗寺院がなかったこともあって、天逝した息子をここに葬ったようです。子供の墓にしては立派ですが、たった一人の男の子を亡くした彼の悲しみが伝わってくるようです。(情報提供法光寺:津山洋学資料館友の会だより2002.1より)