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取材記事内を検索ワード「神社」で検索した結果,763件の記事が見つかりました。

三寶荒神社(新魚町)

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三寶荒神社略誌 
・社号 三寶荒神 ・社鎮守地 津山市新魚町三十二番地 ・祭神 火産霊神奥津比古神奥津比売神
由緒
 三寶荒神社ハ祭神、火産霊神・奥津比古神・奥津比売神(亦名大戸比売神)ニシテ蓋シ竈神又厨房ノ神ナリ 当神社勧請、年代ハ詳カナザルモ伝説及境内ニアル榎ヨリ推定スル二今ヲ去ル三百年以前ニテ森忠政侯入府前戸川宿時代此地方ノ住民ノ祭レル鎮守ノ神ナルベシ(註往時農村ニハ上十石ト稱シテ十石ヲ収穫スル土地ヲ一廓トシテ荒神ヲ祭リシモノナリト云ヒ市街地ニハ少ナキ神社ナリ)
 森忠政侯入府ト共二戸川宿ヲ中心ニ附近ノ土地ハ津山城下トシテ日々繁華ナル市街地トシテ人家次ギ次ギト建チタルモ旧来附近住民ノ信仰ハ、猶集中シテ衰ヘズ榎ノ側ニ小サキ社ヲ造リ竈ノ神又厨房ノ神トシテ益々祭神ヲ厳修シテ今日ニ至レルモノナリ
 松平侯時代迄ハ木知ヶ原町(現今ノ堺町)ヨリモ参道アリテ参拝者モ多ク殷賑ナリシガ参道附近ノ繁栄ト共ニ何時シカ参道ハ人家ニテ塞ガリ天保中頃ヨリ新魚町ノ繁栄ニツレ後遂ニ新魚町東組ノ鎮守社トシテ専ヲ恒例ノ祭事ヲ行フ事トナリ商売隆盛ナルト共ニ崇敬愈々篤ク以テ今日ニ至レルモノナリ
 新魚町ヨリ参道ハ現在ノ西側半間程ナリシガ吉元宗治郎(入江万治郎弟)大病時共平癒ヲ祈リ其東側ヲ寄進シ現在ノ参道トナセシモノナリ(明治二十四年)境内東側堺町(現在稲村氏、住所地)ヲ荒神屋敷の稱シ神宮小林もんど明治初期住居セシ土地ナリ

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鶴山城址碑(鶴山公園内)

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城のとりこわし
 津山に郵便局ができたのは明治四年、そのときは郵便取扱所といっていた。局の名になったのは明治八年正月であった。明治六年には新しい紙幣ができて旧藩札の通用が停止された。北条県では十一月六日から三日間、吉井川のぞきの川原で四百二十四万枚の藩札を焼いた。
 衆楽公園の設立許可は明治六年四月のこと。津山城のとりこわしも、このとしから準備がはじまった。というのは、二月二十八日付けで大蔵省へ出した北条県からの届けによると
城郭存廃未だ御達し之れなく候へ共、昨夏陸軍省官員巡回のみぎり、やぐら門、石壇すべて払い下げに相成候条入札差し出すべく旨、指示につき去秋取りまとめ、同省へ送達に及び候間、御省へ御引送り相成候儀と存じ奉り候、就いては廃城御決定必然の儀と存じ奉り候。郭内地所払い下げ等御規則照準取計申し候。
とある。こわす段取りを急いでいることがわかる。存置しようという考えは毛頭なかった。そして、実際に取りこわし工事は明治七年六月からであった。約十ヵ月をかけて津山城は完全に姿を消した。

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赤穂浪士(美作国出身)「三士祭」

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 赤穂浪士で有名な「全国忠臣蔵サミット」が毎年、忠臣蔵に関係する市町村が持ち回りで開催地となり、津山市も数年前に開催されましたが、その後については地元出身の三士(神崎与五郎則休・茅野和助常成・横川勘平宗利)が津山藩もしくは美作国の出身でありながら何も行事が行われておりません。(忠臣蔵サミットには行政担当者が出席している)
 そこで、ささやかながら命日(旧暦2月4日)新暦では3月1日(木)に顕彰・慰霊祭を挙行することいたしました。
日 時 平成30年3月1日(木)9時から10時
場 所 徳守神社 神崎与五郎歌碑前(津山市宮脇町)
主催者 公益社団法人 津山市観光協会
協 賛 津山お国じまん研究会
後 援 津山市文化協会

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朝日神社(新田)

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 本神社は第26代継体天皇の御代に、当時神祇伯が素盞嗚尊は国土鎮護の神であるから、これを日本国内の川の西々、または山の尾前に勧請させられた。美作国にも旭川の西の木山宮、吉井川の西の上山宮、吉野川の西の高比野宮、広戸川の西の新田宮等がその時の鎮祀である。もと朝日大明神・新田宮・天王宮・牛頭天王社と称したが、明治4年朝日神社と改称した。昭和16年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。御祭神 素盞嗚尊,武仁親王 旧社格 村社 (文:岡山県神社庁HPより)(撮影2017年10月14日)

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吉田神社(西吉田)

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由緒・沿革 
 吉田神社の前身として、西吉田には2つの神社がありましたが、年代は不明とのことです。昔、出雲大社から御分霊を迎えて、西吉田地区内の南と北に祀りました。1社が現在の吉田神社の地、もう1社が現在金刀比羅宮のある地です。当初は、大国主神社と言っていましたが、その後、両国主大明神と改称しました。戦国時代、山名氏と戦い、敗れて西吉田に住み着いた難波氏がこの神社の社務に従事したとのことです。又、江戸時代、天明7年(1787年)西吉田が、千葉県の下総佐倉の城主堀田正順の領地になった時、現在の吉田神社の南下に陣屋を設け、この神社を鎮護の神社として、毎年3俵の寄進をしたとのことです。
 その後明治4年(1871年)2月に、北の国主大明神を南の現在地に合祀して、社名を吉田神社と改称しました。又、明治5年に北の跡地に金刀比羅宮を祀って現在に至っていますし、明治6年には村主となって、主祭神は大己貴神(大国主大神)です。
 昭和20年(1945年)の終戦により、国家神道は解散となり、宗教法人として再出発をし、昭和27年には宗教法人吉田神社として登録され、岡山県の認証を受けています。また平成9年よりオーム真理教の事件により、内容を再調査することとなり、毎年、報告書を出しています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化神社編』より)

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。

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ママと金刀比羅宮・サムハラ神社・福力荒神様へ

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 昨年のお礼と今年のみんなの幸せを願って、金刀比羅宮とサムハラ神社にお参りして来ました。サムハラ様にお参りする途中の車内でオリンピックのフィギアスケート、羽生選手の演技が始まったので「車を止めてテレビを観る?」というとママは「私がテレビを見ると負けるかもしれないから見たくない。」「えっ!ママもそう思うの?私もそう思うわ~。」と大笑い。ほどなくして金刀比羅宮に到着。車を降りて金刀比羅宮とサムハラ神社にお参りして来ました。ちなみにサムハラ神社から車へ戻ると羽生選手はみごと1位でした。ママ、大喜び!その後、気を良くして旧暦のお正月にいつもお参りする福力荒神様へお参りしてきました。(2018年2月17日撮影)

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戸島神社(戸島)

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戸島神社 旧村社 
由緒沿革 正徳年中に村内に疫病が発生のため、大和三輪の社に参詣して、悪疫退散を祈願し、御分霊を奉還して、村内の大神山に勧請した。寛文六年国主森長継公が崇敬し、村内の有本山に社地を移し、社殿を改築した。貞享三年国主森長武公が、村内沢昌蒲山に社殿を建立した。元禄六年森長成公が、現在の国司に社地を替えた。明治六年村社に列格した。大正六年十一月十三日神鐉幣帛料供進神社に指定さられた。主祭神 大己貴命 伊弉諾尊 / 主要建物 本殿 幣殿 拝殿 神門 社務所 膳舎 神輿庫 / 摂末社 御先社 天神社 稲荷社 荒神社 若神(文:『苫田郡誌』)(2017年8月4日撮影)

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八幡神社(津山市日上)

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 由緒 本神社は弘安4年(1281)、郷士三樹左馬助が元弘の役に従軍の時、宇佐八幡宮に詣で武運長久を祈り、帰郷の際、同神社の御分霊を奉戴して現在地に祀った。宝永6年(1709)火災で炎上。天保2年(1831)再建して現在に至っている。明治6年村社に列した。大正12年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。御祭神:譽田別尊、天照大御神、素盞嗚神
主な祭典 10月15日:秋季大祭、4月28日:春季大祭、7月14日:夏祭(文:岡山県神社庁HPより)(2017年6月11日撮影)

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