阿弥陀堂の大イチョウ(奈義町)
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阿弥陀堂の大イチョウ(奈義町指定天然記念物 昭和44年7月7日指定)
勢至丸(後の浄土宗の開祖法然上人の幼名)が修行のため菩提寺の叔父の下へ行く時、この木の枝を杖にし、「学成れば根付けよ」と突き刺したのが、菩提寺の大イチョウになったという伝説があり、大イチョウの親木とも伝われている。
落雷で一部が焼けるなどしているが、枝から垂れる気根は3mにもなり地中に達している、県北を代表する巨樹である。(2015年11月7日・11月20日取材)
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阿弥陀堂の大イチョウ(奈義町指定天然記念物 昭和44年7月7日指定)
勢至丸(後の浄土宗の開祖法然上人の幼名)が修行のため菩提寺の叔父の下へ行く時、この木の枝を杖にし、「学成れば根付けよ」と突き刺したのが、菩提寺の大イチョウになったという伝説があり、大イチョウの親木とも伝われている。
落雷で一部が焼けるなどしているが、枝から垂れる気根は3mにもなり地中に達している、県北を代表する巨樹である。(2015年11月7日・11月20日取材)
国指定天然記念物 菩提寺のイチョウ 昭和3年1月18日指定(2015年11月11日・20日取材)
このイチョウは、浄土宗の開祖法然上人(幼名:勢至丸)が、仏教の手ほどきを受けるために、この菩提寺に入山の際、麓にある「阿弥陀堂の大イチョウ」の枝を杖にし、学業成就を願い挿し根付いたと云われる名木です。平成25年に奈義町教育委員会が行った樹勢診断調査の中で、「菩提寺のイチョウ」と「阿弥陀堂のイチョウ」そして隣り合って立つ「天明のイチョウ」は同じDNAを持つことが判明しました。この事は、記の育った環境を知り、今後の樹勢維持の検証するうえで貴重な発見となりました。皆さんもこの木を見上げ、900年の歴史に想いを馳せ、奇跡の生命力を感じていただければと思います。(樹高:40m、目通り幹囲:13m、樹齢:推定900年)
名木百選 「長法寺のイチョウ イチョウ(イチョウカ)」 津山市井口 推定樹齢200年
明治の詩人薄田泣菫がその名著「二十五弦」に出した長詩の一節のモデルといわれているイチョウである。2014年11月20日取材
(2009年の取材)(2010年の取材)(2012年の取材)(2014年の取材)
2014年7月1日(火)あじさい寺【長法寺】に行って来ました。
阿弥陀如来を本尊とし、脇侍に天台大師、伝教大師をおまつりしている。現在のお堂は弘化2年(1845年)西方にあったものを移し、阿弥陀堂兼客殿として再建す。
明治6年(1873年)津山城取り壊しの際贈られた。本丸御殿の鬼瓦、鯱(しゃち)、紫陽花(あじさい)の絵を描いた襖障子があります。2009年の紫陽花の様子はこちらから、名木百選 長法寺のイチョウ
宮東集会所の裏手に阿弥陀堂跡があり、地元では「ミコヤブ」と呼ばれている。
また、道城ばなには古霊様の祠がある。道城の福田修一宅の庭には、大日如来座像の祠が安置され祀られている。また、その裏山に道城寺跡がある。いずれも建立の年代は明らかでない。
堀井会館から西になだらかな坂道を行くと、家並みの途絶えた左手前方に、真新しい鳥居が見え、開けた所に樫風呂様の社がある。かつては大きな樫の木があったが、その下に広い風呂のようにくぼんだ所があり、堀井組合ではここでお籠りをしていた。その後方に白壁の阿弥陀堂が見える。ここは「本尊薬師如来 苫勝第七番霊場」となっており、堀井では昭和30年代まで、巡礼にくるお遍路さんの接待をしていた。阿弥陀堂が老朽化したため、堀井組合で浄財を出し合って、平成8年に改築し今もねんごろに祀っている。
東谷の釣井から西谷に越す坂道の上にお不動さまがある。
お堂は平成元年に改築されたもので、堂内の中央に厨子に納めた不動明王、両側に観音菩薩・薬師如来・弘法大師など、多くの仏像が安置されている。
お堂の東側(字本願寺)には、この場所が津山城の鬼門に当たることから、元禄元年に城主森家の祈願所として建立された山伏寺の極楽山本願寺があった。この極楽山本願寺が廃寺となった後、その木材を用いてお寺の西側(字堂西)に不動堂を建て、本尊の不動明王を安置したと伝えられている。
誕生寺由来 (2012年11月18日取材)
誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)
天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)
大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)
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菊水山 公卿寺 (津山市加茂町公郷1309)
縁起
当寺は公郷にあり、菊水山公郷寺と号し、聖観音を本尊とする天台宗比叡延暦寺の末寺である。
『東作誌』によれば、開基は「貞観二丙辰年(貞観二年は庚辰-筆者)慈覚大師作州に台宗の仏寺を開かれし六十余ヶ寺の其一員なるべし」と推定している。明和年間(1764~71)に旧称水尾山真福寺の寺号を菊水山公郷寺と改めた。「東西百間余。南北百二十間余」の広い境内(『東作誌』)をもち繁栄したこの寺は、文化十二年(1815)には「漸く寺号を残して苧堂に等しき一宇を遺すのみ」(『東作誌』)と衰退していた。
本尊聖観音像は、慈覚大師円仁(794~864)作と伝えられる(『東作誌』)一尺二寸の寄木造の木造仏である。また現存する三間四面の本堂および門は文久年間に建てられたものである。檀家は文化十二年(1815)に二百四十戸、現在二百五十戸である。寺の年中行事に、正月の日待祭がある。
本尊 聖観音、年中行事/正月 日待祭(「加茂町史」神社と寺院より)2012年8月22日取材