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取材記事内を検索ワード「碑」で検索した結果,396件の記事が見つかりました。

故金谷夫婦顕彰碑(下高倉西)

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故金谷夫妻顕彰碑(2013.2.19)
 金谷雅一氏(1883-1979)は下高倉西の西尾に生れ、明治37年(1904)、新天地での農業に夢を託して渡米し、農業等で苦労するなかで洗礼を受けた。戦後、「福音を郷里に」と、昭和29年(1954)に一時帰郷し、地域の協力も得て、高倉に教会と付属幼児園を開設した。
 昭和36年(1961)に、国から認可されるまでは園の経営を援助し、「高倉ひかり保育園」の基礎を築いた。現在保育園は、高倉地区や近隣からも多くの幼児が入園し、保育や幼児教育に大きな役割を果たしている。

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栃畑神社(津山市籾保)

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栃畑神社
主祭神 高皇産霊尊 袴幡千々姫命 饒速日命
由緒沿革 機織部がその祖神を勧請したものであると伝える。倭同年間国府が置かれ、総社の大祭が毎年執行せられるに当り、国司の預かったという。参集の儀は天正末年まで行われた。延宝四年国主森長継の三子長俊が産業織蚕の神として幣帛を奉って以来、歴代の藩主の崇敬が厚かった。現在の社殿は文政十一年十一月改築したもので、明治八年一月村社に列格した。

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宇那提森(うなでがもり)のムクノ木(二宮)

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★宇那提の森(ムクノキ)(市指定天然記念物)2013年4月8日取材
巨木のムクノキは、古くから古歌にも名高い名所「宇那提が森」の跡で、もとは繁り栄えた森林でした。しかし、天正年間(1573年頃)宇喜多直家が防塁するため伐採したため、このムクノキ株のみが残ったと伝えられています。推定樹齢は700年で、主幹は根元周囲4m、高さ約10mです。

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【津山人】 米井源治郎之碑(下高倉東上塩)

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麒麟ビールの初代社長 米井源治郎之碑(2013年4月10日取材)

 上塩池西側の米井澄近宅沿いに「米井源次郎之碑」がある。蘭学者で医者の仁木永祐が籾保村に開いた籾山校に学び、上京して慶應義塾を卒業後、財界人として明治時代の近代国家確立の一翼を担った米井源治郎の功績を称えるために、生家の当主澄近氏が平成6年(1994)3月に建立した碑である。


 文久元年9月16日下高倉東1723番地に米井仲平の次男として誕生、蘭学者 仁木永祐氏の籾山校に学ぶ。後津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業。後 磯野商店の大番頭として活躍。三菱銀行岩崎久彌氏に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイ等の社長を努めると共に明治屋(旧磯野商店)二代目社長をも努めた。
 行年59才 葬儀には、天台宗の大僧正をはじめ多くの政界人や財界人が参列した。(文:米井源次郎之碑より)

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尾所のさくらです。

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2013年4月17日の尾所のさくら満開の様子

由来 西暦1450年 年号宝徳2年の頃、山伏が倉見越えの途中ここで休み、持っていた杖を残したまま出立ちした その杖が根づいて今の桜の木になったものと伝えられているこの桜の木は、当村大田進氏より阿波村へ寄贈されたものである。と石碑に書いてありました。

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岡隅神社旧跡碑(下高倉西字岡隅鼻)

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岡隅神社旧跡碑(2013.2.14取材)
 岡隅神社は高倉神社に合祀されているが、この旧跡碑は"御食事処たかくら"の北方にある天王山の麓にある。碑には「岡隅神社之旧跡碑 明治42年2月11日合祀 西尾有重旧氏子中」と刻まれている。なお、東作誌には「岡住大明神西分苦屋(若屋)にあり 西分の氏神 本社四尺五寸四方 南向拝殿 一間半二間 鳥居木 社地 二反分」と記されている。(文:高倉の歴史と文化財より)

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寂静山 教本寺跡(下高倉西)

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寂静山 教本寺跡
 下高倉西二区公会堂から北北東に約200mのところに「宗祖見眞大師650回忌法要記念碑」がある。この道を隔てた北側が教本寺の跡地である。寂静山教本寺は天正2年9月(1574)に真言宗備永寺として建立された。
その後、享保14年(1729)、備前守右近正広入道の時代に浄土真宗に改宗された。明治26年、12代導隆のときに本堂が再建され、13代導徹も引き続き寺院の整備につとめ門徒数も増加した。当時お寺の縁日には地元の高倉をはじめ、遠方からも大勢の参拝者が続き賑わっていた。

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愛宕大権現・秋葉大権現・大日如来(高倉)

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愛宕大権現・秋葉大権現・大日如来
これらの石塔は、「御食事処たかくら」から北に行くと左手の松林の中にある。「京都の愛宕様」の御神体は火神、雷神であり、「長野の秋葉様」も火防(ひぶせ)の神で多くの村々に勧請(かんじょう)され災難よけを祈った。一時、祀りがすたれていたが西尾で火災があってから、西尾組合で清掃し祀っている。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16日取材

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天穂日(あめのほひ)神社(津山市西中字天満)

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 本社は、新野西中の産土神であり、社殿によれば円融天皇の貞元二年(977)西中の天満山に社殿を創立して天穂日命を祀り、天満宮と唱えました。元禄二年には津山森藩の崇敬により本殿が再建され、明治六年には村社に列せられ、西奈加神社に改め、さらに明治十年に天穂日神社に改称しました「(美作神社資料」)。新野まつりには当社の神輿一体が新野山形の稲塚野に神幸せられる。
 各社にはそれぞれ神楽殿があり、この舞台を利用しながら発展したのが横仙歌舞伎である。
 まつりの終わったころから芝居の稽古がはじまり、氏子たちは地下芝居の役者となって芸をきそう。神域は各村々の最高の娯楽場でもあった。

参考文献:(勝北町誌・歴史めぐり資料)(神社と寺院)2012年10月26日取材

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