新茅町
「新茅町は鉄砲町の西にありて1区域をなせり、東北は堤をもって鉄砲町、西寺町に界し西南は小田中村に限る、初め柳土手と称す。森氏流離の民をしてこの地に住せしむ。明治5年壬申戸籍編成にあたり改めて新茅町と称す。」(矢吹正則著『津山誌』)
町の東端に大正の頃まで遠方よりお参りする人も多かったといわれている普門品観世音菩薩の石仏が在ります。その横に建立の由来は不明ですが、正面に南無阿弥陀仏、側面に五月吉氏と刻まれた墓があり、周囲には五輪塔が並んでいます。
「新茅町は鉄砲町の西にありて1区域をなせり、東北は堤をもって鉄砲町、西寺町に界し西南は小田中村に限る、初め柳土手と称す。森氏流離の民をしてこの地に住せしむ。明治5年壬申戸籍編成にあたり改めて新茅町と称す。」(矢吹正則著『津山誌』)
町の東端に大正の頃まで遠方よりお参りする人も多かったといわれている普門品観世音菩薩の石仏が在ります。その横に建立の由来は不明ですが、正面に南無阿弥陀仏、側面に五月吉氏と刻まれた墓があり、周囲には五輪塔が並んでいます。
由緒
天平勝宝7年(755)村内に悪疫が流行して村民が多く死んだ。時に国分尼寺の尼憎が夢に素盞嗚神が現れて曰く、「我が社を天王山の東西畑に祀れ、疫病忽ちに止みなむ」と告げられた。尼僧はこれを村民に告げ、村民は一祠を建立して西畑天明神と称した。明治になり、高瀬神社と改称した。(文:『岡山県神社庁誌』より)(2019年1月14日撮影)
時は室町幕府が出来て間もない南北朝時代、播磨を拠点とする赤松氏と山陰の雄山名氏が美作の国の領有をめぐって争っていた時である。
正平15年(北朝文和5年 1360)美作の守護赤松貞範は山名時氏を攻撃して篠茸城(久世)、高田城(勝山)、院庄城(津山)、神楽尾城を落とした。その後、神楽尾城は赤松入道世貞が守っていた。
2019年1月5日午前9時から津山市山北の津山総合体育館に於いて「平成31年津山武道学園稽古始め」がありました。市内の約350名の可愛いちびっこ達と大人が初稽古に汗を流しました。
藤田長久会長、高原清隆学園長の挨拶に続いて津山市弓道連盟の田渕雄一会長の奉納演武がありました。その後、各競技ごとに分かれて初稽古をしました。「これからも武道学園の中にあって、他の武道団体のみなさんと一緒になって日本古来の伝統文化でもある"武道"の普及・発展に寄与していきたいと思います。」とは少林寺拳法連盟の畝岡先生の言葉でした。
山西の村のはずれに六躰という所がある。何時の頃からそんな名前がついたのかだれも知らない。いたち道の細い道がいく重にもくねっている。その山道の背の窪みに小さな石の地蔵様が七つ並んで立っていらっしゃる。あまり信仰する人もないのか、ローソクも線香も見かけることは殆どない。
今から百年程前のことである。山西に長という信仰心深いおばあさんと生という娘がいました。おばあさんは氏神様に日参二十一日は新善光寺、二十五日は天神様にお参りして帰りには飴玉やけし板を買って六躰のお地蔵様にお供えするのが楽しみであった。
津山市下田邑の字平尾に三子山泉水寺という祈祷の寺がある。
往時、出雲の富田の城主尼子氏の祈願所であったという。(作陽誌より)
現在は、毎年大晦日に各地から修験道の行者が、泉水寺に集まり、四方に矢を放ち、大護摩を焚き、火渡りの行事を行って、世界平和・国家安寧、家福増長、厄難消除、健康増進を祈願している。
美作では数少ない修験道の伝統行事を厳修している寺院で知られている。
津山市西寺町の妙勝寺に於いて、2018年12月31日午後10時から歳末報恩会。11時からお守りやお札などのお焚き上げ供養。そして、午前0時ごろから有志による水行が行われ、水をかぶり、身を清めて新年の安泰を祈る儀式がありました。今年の年明けは気温も低く寒い日となりましたが、子供たちも大人に混じって元気に水行を行っていました。水行を始めてすぐ体中から湯気がもうもうと立ち上がり幻想的でした。
平成31年(2019)のご来光を「黒澤山 萬福寺」で迎えました。萬福寺の境内には雪が積もっていてとても寒い元旦となりましたが、ご来光を拝みに来られていた人々と一緒に2019年の幕開けを迎えてきました。今年一年がどうぞ穏やかな一年となります様にと願ってやみません。
入日長者は、何不自由なく暮らしていたが、ただ一つ子どもに恵まれないのが悩みの種だった。
長者は神仏に祈った。特にお伊勢様に女房と二人づれでまいり、三、七、二十一日の塩断をして祈願をした。そのかいあったのか、その年、娘の子が授かり翌年男の子が授かった。女の子には伊勢と名前をつけた。 伊勢はキリョウよしで、村中の評ばんの美人だった。大きくなるほど美しさを増した。所々方々から嫁にほしいと申し込みがあった。しかし伊勢は一向に耳をかさなかった。
十九歳のとき、因幡の国の長者から縁談が持ち込まれた。父も母もこれには心がうごいた。伊勢にこの話をして、いやおうなしに承諾させた。長者の娘のためにたくさんな衣裳を作ってやった。結婚の日取りは三月ときめた。いよいよ鹿島立つ日、一行は長い長い行列であった。美しい衣裳をまとった伊勢は又一段と美しさを増した。伊勢が門口に立つと見送りの人達がいっせいに「ああ美しい」と感嘆の声をはなった。伊勢は駕籠に乗って家を出た。父も母もこれが見納めとは思わず、門口で見送った。
土居家四代七郎右衛門の頃に次々と不思議なことが起こった。人々は、これは千場三郎左衛門の祟りであろうと恐れおののいた。
その一つとして村内にある家に13歳になる子供が長い間「おこり」を病んで寝ていた。
ある日、子供が突然床の上に正座して「村の長(土居七郎右衛門※1)に言いたいことがある。急いで呼べ。」村の長が来ると「われは、千場三郎左衛門の霊魂だ。」と立派な武士の様子で語り始めた。
「かつて、神楽尾城に居った時、汝の祖土居四郎次郎とは刎頸(ふんけい※2)の交わりを結んでいた。