津山洋学資料館 春季企画展「文明開化と美作の医学」
平成30年度津山洋学資料館春季企画展 「明治150年記念 洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」より
維新前夜
幕末の日本は、ペリー来航、開国から、尊皇攘夷の高まり、長州征伐、尊王倒幕、大政奉還と続き、戊辰戦争へとつながる動乱の時代でした。事件・出来事に対する情報が錯綜し、流言飛語が飛び交うなど騒然とした雰囲気が社会を包んでいました。そのような中で、人々はより正確な情報を求めました。友人知人からの手紙では、自身の近況のみならず、巷に流れる噂や、知り得た情報が報告されるようになります。また、幕末には「新聞」が生まれましたが、中には発行者にとって有利な状況を作るべく、それぞれの立場から見た情報を庶民に提供するものもありました。
このような混乱の中で、江戸幕府から新政府へと政権は移り、270年続いた江戸時代は終わりを告げたのです。しかし、民衆にとっては、それで混乱が沈静化したわけではなく、その後に続く新たな変化の始まりでもありました。
明治初期美作の様子
文明開化を迎え、美作地域でもその影響が見られるようになります。東京や大阪などの大都市や開港地とは違い、目に見えるような大きな変化はありませんが、確実に日常は変わっていきました。
明治政府成立後も、1871(明治4)年の廃藩置県まで、津山藩と飛び領地を持つ各藩がそのまま美作地域を統治していましたが、幕府領であった場所は政府の直轄地となり、津山に監督局が置かれた様子がうかがえます。また、政府の出した通達が美作地域に到達するまでかなりの時間差がありました。
1869(明治2)年は全国的に凶作で、特に東北地方では大きな被害が出ました。美作地域においても寺社への初穂料は半減、酒・焼酎商の立ち入り禁止などが通達され、また、難渋人が数多く出るなどの影響がでています。この混乱のなかで、人々が根拠のない噂に惑わされている様子が資料に残されています。
明治初年の人体解剖
1869(明治2)年、津山藩医に登用された医師仁木俊達が行った人体解剖について、解剖された人物の骨格が標本として残されています。標本が収められた箱裏書きには「明治初年に津山藩医仁木俊達が刑死人を解剖し、その謝礼として、骨格を受け取った」とあります。
専門家の鑑定によると、「頸骨(首の骨)の切断面や下顎骨(下あごの骨)にみられる傷から、この人物は斬首されたと考えられる。また、各骨にはそれぞれの名称や接続する骨の名が記されており、医学研究のための標本であったことがうかがえる。」とのことです。
現代では考えにくいことですが、刑死体を藩医に下げ渡すことによって、西洋医学の修得を藩が後押ししていたのかもしれません。
仁木家墓所(津山市泰安寺)
津山市内にある津山藩医仁木家の墓所。中央の、墓前に碁盤を模した供台があるものが仁木俊達の墓碑です。俊達は、生前、囲碁を非常に好んでいた、と伝えられています。また、香炉には茶道具が浮き彫りにされています。
(文:津山洋学資料館「文明開化と美作の医学」より)(2018年3月23日撮影)
津山の明治維新 津山藩布告 国を繁栄させるには 富国之儀(明治初期)
津山藩布告
1868(慶応4)年5月
明治維新に際して、備前藩との和睦成立についての布告。江戸幕府崩壊にあたって津山藩は天皇への恭順の意を示していましたが、津山松平家は御家門であったため、降伏を認めてもらえず、官軍側の備前藩とのにらみ合いが続いていました。
国を繁栄させるには 富国之儀
明治初期
津山藩医を勤めていた久原家に残された建白書の草稿。当時の久原家当主であった久原宗甫洪哉が著したと思われます。国を繁栄させる礎は人材であり、漢学を充分に修得した若者を東京に送り、西洋の学問を学ばせるべき、と主張しています。
おぼえ帳 巳御仮免出勤覚帳 諸控〔 〕
維新直後の美作地域
おぼえ帳
1868(明治元)年11月
美作北部の医家に残された、明治元~2年のメモ書。明治2年正月付けの酒造鑑札差出覚があり、宛先が津山天領局となっているほか、津山藩から役人や若殿が郡部を廻村するなど、廃藩置県以前の、美作地域における政治体制の一端を、うかがうことができます。
明治2年の美作地域
巳御仮免出勤覚帳
1869(明治2)年10月
下斎原村 庄六
中程に、明治2年11月25日付で出された津山役所からの通達が記されています。これによると、当時、凶作の影響から、私的な寄合や密談が横行し、虚説・流言が囁かれて、庶民が動揺していた様子がうかえます。
諸控帳 万日記覚帳
明治3年の美作地域
諸控〔 〕
1870(明治3)年
美作地域の医師の覚え帳。この中に、前年(明治2年)の凶作により難渋人が多数おり、貯蓄用の種籾の半数を払い下げてもらいたいという、嘆願書の写しもしくは下書と思われる記事があり、それに対し、政府から難渋人に金銭が支給されたことが記されています。
明治4年の美作地域
諸控帳
1871(明治4)年正月
酒造株の譲渡や、西西条郡下斎原村(現在の鏡野町)の家数、人数等の記事があります。明治2年に比べて家数は1軒減少しているものの、人数は6人増加していて、凶作の影響はあまり無かったことがうかがえます。
明治6年の美作地域
万日記覚帳
1873(明治6)年1月
牧野
明治6年の金銭出納簿か。明治4年に藩札回収令が発布され、各藩札は、新貨幣単位(円・銭・厘)により価額査定することが定められていますが、明治6年1月時点のこの地域では、まだ藩札が使用され、江戸時代の貨幣制度のままであることがわかります。
明治7年の美作地域
万差引覚帳
1874(明治7)年1月
明治7年の金銭出納簿。金額が新貨幣単位(円・銭・厘)で記入されていて、前年中に、この地の貨幣制度が新制度に切り替わったことがわかります。
世界を知らせる世界国尽
西洋の物語を通して啓蒙
童蒙おしへ草
1872(明治5)年
福沢諭吉
子ども達に短い物語で、西洋的な考え方を教え、諸科学を研究・応用する際の基礎的入門書となるように、イギリス人チェンバースの著した"Moral Class-book"を翻訳しました。
明治の初めに普及した代表的な修身書のひとつです。
学問のすすめ 童蒙おしへ草
写真右:科学思想の普及をはかる「啓蒙知慧之環」1874(明治7)年
写真左:西洋の学問・知識をわかりやすく「百科全書 教導説」1875(明治8)年