近長代官 沼尻又治郎重遠墓(中村)

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近長陣屋領内であった勝加茂西中の真言宗新善光寺境内鐘楼の巽位に近長代官沼尻又治郎の墓があり、自然石の碑に
沼尻又次郎重遠墓
先考仕吾 土浦候嘉永癸丑四月為近長令赴任癸丑七月罹病以五日沒于府舎無子故以甥重道為嗣葬新善光寺謚曰 沼蓮院甫仭義照居士
と刻まれて居る。碑文には病死と記されてあるも事実は近長大庄屋甲田猪右ヱ門方に於いて自刃したものであり、其死因に就ても俚傳があるも明確でなく、此没後甲田猪右ヱ門が公用の道中、攝津尼ヶ﨑附近に於て沼尻氏の為めに討たれたとのことが傳へられてゐる。

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近長陣屋
 津山市近長(元勝田郡廣野村)字一本松六畝七歩は近長陣屋の阯であって、常陸土浦藩の代官所を置いたところである。常陸土浦の城主土屋能登守篤直は、延享四年四月和泉國大島和泉二郡にあった領地を幕府に収め、其替地として美作國勝北郡吉野郡の内五十三ヶ村に於て一万九千八十石の封を受け、初め吉野郡下町村に陣屋を置いてこれを治めたのであるが、其後寛政二年に至って吉野郡の内一万石を幕府に収め、その残地勝北郡十六村、吉野郡三ヶ村八千六百十八石余となったので、寛政四年勝北郡廣野郷近長に陣屋を移してこれを治め、明治三年七月生野縣に引継まで此地に代官を置いたのである。

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近長陣屋在勤の代官其他の諸役人に就ては、明確なる資料がのこされて居らぬのであるが、近長陣屋領内にあった寺院及津山妙法寺、下野田経王寺等にのこる過去帳の記載、墳墓等によって明らかなものを録して見る。新野西中にある日蓮宗法光寺にある墓碑中に、
真如 研明院現理居士 寛延二巳巳年三月十五日 常州土浦之産 生前田原政之助
妙法 幻室院窓関童子 宝暦二壬申八月廿二日 施主関喜右ヱ門景將
妙法 玄室秋光童子 天明九巳六月廿九日 俗名河原孝藏
妙法 是則院妙精日進信女 弘化三丙午天七月十一日 鈴木源内妻
以上の如きものがあり、何れも近長代官の墓と傳へられて居るのであるが、此内鈴木源内妻を除き三基は下町陣屋時代のものであるが、當時土屋氏領内の日蓮宗寺院は此法光寺一ヶ寺であった関係上領内寺院として此所に建碑したものであろふ。又勝北町下野田にある日蓮宗経王寺の過去帳に、
修善院妙光日成大姉 寛政八丙辰六月十三日 常州土浦家士木嶋氏母公 大阪妙壽寺葬
縁渓院道輝日高居士 文政七申年四月三十日 稲川七郎墓延生村
不染院玄了 文政九丙戌年五月四日 常州土浦家中仲村半次弟
光顔智英 文政十三庚寅三月 近長代官 中村氏嫡子
以上の如きものがあり、當時下野田村は幕領であったが、日蓮宗寺院として近長陣屋最近距離のものである関係上葬儀に参列したものと思はれ、又津山の日蓮宗妙法寺の過去帳に、
修善院妙光日盛大姉 寛政八丙辰六月十三日 近長代官 木島周左ヱ門母 大坂妙壽寺ニ葬ル
嶺松院忠巌日輝居士 寛政十二年八月六日 近長代官木嶋周左ヱ門 六十一
光顔智英童子 文政十三年三月廿一日 近長代官 中村半之丞忰 四才
と載せてあり、経王寺と同名のものもあり、近接地寺院として葬儀に與かったことが窺はれる。  
(文:『美作古城史三』より)


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土屋作州領代官所                沼尻又治郎母のルーツ

岡山県津山市の調査
 大阪滋賀方面の調査と同時に一班は岡山県津山市を訪ねた。土屋氏が美作国勝北郡、吉野郡を領有したのは延亨四年で吉野郡は寛政二年まで、勝北郡は明治二年までの間であった。陣屋ははじめ下町村に置いたが、寛政四年近長村に移った。近長(津山市)の一本松の旧陣屋跡には何も残っていなかったが、そこから移った近長の名主の旧宅(甲田家)は堂々たる遺構をとどめていた。年貢米はすぐ前の加茂川から船で吉井川に出、川口の西大寺港に運ばれ、そこから大阪の蔵屋敷に運んだということである。資料館で調査している間に次のような史実を確かめた。
それは文政八年津山附近各藩領に百姓一揆が起ったとき、土浦領だけは秋の検見のとき年貢半減の措置をとったので、一揆がなかった。土屋藩の善政を物語るものである。なお美作領ははじめの約一万九千石であったが寛政二年から八千六百石余になった。(文:『土浦市史』より)

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※この地に一揆がなかったのは大庄屋甲田家の力が強く、年貢米の取立が思うように出来ず、板挟みになった代官沼尻又次郎が甲田邸に於て自刄しており、年貢半減のかげにはかくされた裏話がある。(故甲田幸恵さんの走り書き)