2018 高野神社の秋祭り
2018年10月21日(日)に平成最後の「津山祭り」が高野神社にて執り行われました。この日は昨年とはうって変わって晴天に恵まれ、盛大に神事が行われ本当によかった。だんじりもウエストランドに集合した後、高野神社まで行きます。今年は本殿が修復の工事の為、神様は一時御崎神社に遷座されていました。また、今年のだんじりは11臺だったそうです。(だんじりを全部撮ることは出来なくてごめんなさい。)
2018年10月21日(日)に平成最後の「津山祭り」が高野神社にて執り行われました。この日は昨年とはうって変わって晴天に恵まれ、盛大に神事が行われ本当によかった。だんじりもウエストランドに集合した後、高野神社まで行きます。今年は本殿が修復の工事の為、神様は一時御崎神社に遷座されていました。また、今年のだんじりは11臺だったそうです。(だんじりを全部撮ることは出来なくてごめんなさい。)
2018年10月21日、津山市小田中に鎮座する白加美神社の秋祭りが執り行われました。
地元なので毎年伺っていますが、今年は特に若人がキビキビと舞う獅子舞がとても素晴らしかったです。それに、小学生の笛の音色も可愛かったです。小田中も高齢化率も高くなってきていますので担ぎ手も少なくなっていますが、白加美神社の秋祭りは延々と続いてほしいものです。
2018年11月1日のイナバ化粧品店です。津山地方は曇り空で朝夕はかなり寒くなってきました。
イナママは九州から帰られたばかりで少しお疲れ気味かも?と思いましたが、「これ、ともちゃん(お嫁さん)が作った、いなえもんといなのすけ。皆様も風邪ひかないようにね!」とお元気にメッセージをくださいました。
2018年10月19日、津山高専つやまイノベーションセンターIT研究会主催で「大人も楽しい、IchigoJamプログラミング体験会 iNつやまこうせん」が開催され参加して来ました。
講師の先生は、Presenter:株式会社jig.jp 会長 福野 泰介氏で、内閣官房オープンデータ伝道師です。
習う前は、ど素人がプログラミングを簡単に組めるものかと半信半疑でしたが、勝手にプログラミングは難しいものと決め込んでいる自分に気づいたことと、素直に言われることを実行して行けばそんなに難しく考える事もないと思いました。先生は教え方がお上手で大人も楽しめました。
杉さま古墳は、勝北町杉宮にあり、那岐連山の裾野に開けた勝北盆地の西側をほぼ南北に走る丘陵中央部のあたりに西賀茂神社があり、そのうしろの社叢へ向かって50mほど入った頂上部に3基の古墳が並列して存在する。
古墳前方には広戸川が流れ、その向こうに水田地帯を見渡す丘陵は、海抜150m、平地との比高差15m、古墳の大きさ直径15m、高さ2m、3基ともほぼ同規模の円墳が南北へ隣接し、原形をよくとどめている。
杉さま古墳の立地する丘陵上に沿って北に6~7世紀頃と推定される三島古墳、西北に宗四郎古墳、城平古墳が存在し、また南へ約2㎞の地点には平成3年に発掘調査が行われた近長丸山古墳があり、この間を継ぐ線上の中間点に上野田十三塚古墳の跡があって当時の葬送儀礼、古代人の生活の有様を窺うことができる。
町内には、そのほか竪穴式の古墳や横穴式の石室をもった古墳、方墳など130基あまりが確認されている。
杉さま古墳は、幾世紀にわたって風雨に晒され、その間において盗掘などによる破壊を免れよく原形を遺している数少ない古墳の一つである。
およそ6世紀頃のこの地方で稲作を中心として生活した氏族小集団の首長墓ではなかろうかと考えられており、平成4年9月これらの古墳を町の文化財に指定する一方、入口に説明板や案内標識などを立て町民、特に小中学生の生きた教材として利用できるよう整備されている。
国道53号線、上村バス停で下車し、南へ徒歩で約10分。
(勝北町文化財保護委員・平田安男記)(『平成5年発行:勝北風の里探訪』より)
2018年10月13日、久しぶりに「津山まなびの鉄道館」に出かけてきました。丁度、明日が(14日)指定日となっていますので、キハ58形気動車の頭出し、DE50形ディーゼル機関車を転車台に搭載、子ども制服の貸出、無料のレトロリレーバスの運行等、いろんな特典がありました。
当社では、日本国有鉄道(国鉄)が取り組んでいた鉄道文化遺産の保存活動を引き継ぎ、当社管内にある貴重な鉄道文化遺産の散逸を防ぎ、良好な状態で保存・管理する取り組みを行っています。
当社では、管内の鉄道文化遺産の価値を評価したうえで「鉄道記念物」、「準鉄道記念物」、「登録鉄道文化財」に区分し、保存・管理を行っています。
今回、登録鉄道文化財である「旧津山扇形機関車庫と転車台」を鉄道記念物に格上げ指定いたします。指定日:2018年10月14日(日曜日):鉄道の日(JR西日本2018年9月13日ニュースリリースより)
口碑によると、貞観年中(859~877)小桁山極楽寺の僧円仁が、近江国日枝神社の御分霊を迎えてこの山に祀り極楽寺の鎮守としたという。作陽誌に、極楽寺の項の鎮守社山王十禅師とあるのは本神社のことである。最近まで極楽寺住職が例祭には必ず参列するのを例とした。本神仕はもと山王権現社と奉称したのを、明治4年高富神社と改称し、明治6年村社に列した。(文:岡山県神社庁HPより)
新善光寺にある巨白庵の墓碑に次のような文がある。
先生諱文水三箇尻氏號巨白庵豊後大
分郡入蔵邨人考日貞輔先生其第三子
也幼入禅門天保定住播磨三日月邨慶
雲寺嘉永三庚戌歳退隠美作東南条郡
野村吟花嘯月以自娯旁以句讀習字教
先生の名は文水、号を巨白庵といい、豊後大分郡入蔵村の三箇尻貞輔先生の第三子である。幼少のころ禅門に入り天保年間に播磨三日月村の慶雲寺に住んだ。嘉永三年に寺を退去して美作東南条郡野村に住み、漢詩や歌を詠み、習字を教えたと記している。
この文によると、巨白庵は嘉永三年(1850)に野村に来た。彼の前任の初代講師半仏道人は三年ほどで帰国したとすれば、村塾の開設年は「成名校沿革について」の文政末期より一六・七年後の弘化四年(1847)か嘉永元年(1848)であることになる。このとき文化十二年生れの保田平兵衛は三二・三歳、細岩井手の開鑿に取り掛かる安政元年の七・八年前であった。
巨白庵について付け加えておく。
嘉永三年(1850)野村に来たと墓碑にある。平兵衛の招聘によって塾の教師になったと思われ、以後「一四・五年間」も教えた後出雲へ行くが、塾の門人の要請により明治二年(1869)また帰って教師を続けた。
由緒
創建年代、由緒は不明であるが、口伝によると、戦国時代の此の地の領主荒尾志摩守が京都の伏見から御分霊を勧請したと伝えられる。それ故今に此の谷を荒尾谷と呼んでいる。
主祭神:倉稲魂神 例祭:10月28日 主要建物:本殿・拝殿 津山市東横山623
宮司宅電話 0868-22-4390(文:『岡山県神社誌』より)
「PORT ART&DESIGN TSUYAMA」(ポート アート&デザイン津山) は、岡山県北部の山間に位置する津山市に誕生したアートギャラリーです。
大正9年(1920年)に竣工した市指定重要文化財である旧妹尾銀行林田支店の大らかな建築空間が、アートの発信拠点として生まれ変わりました。銀行、その後は洋学資料館としても使われたこの施設は、赤レンガタイルが敷かれた中庭を中心として、神社仏閣を想わせる木造の本館、石造りの金庫棟、赤レンガ倉庫が立ち並ぶ構成を持ち、1世紀前の大正ロマン期の華やかな建築様式と往時の市井の面影を今に伝えています。