山田方谷旧宅及び長瀬塾跡
この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。方谷は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士の河井継之助(1827~1868)が方谷の教えを請いにこの地を訪れています。
方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
学規(塾のきまり)も5条定められていました。要約すると次のようになります。
1,1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2,帰省および遠出のほかは外泊してはいけない。理由があって帰れないときは報告する。
3,毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4,秋冬にはしっかり読書する。
5,寮内を清潔にし、傘、はき物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。
高梁市教育委員会