山田方谷旧宅及び長瀬塾跡

2021-4-11houkokunagasejyuku3.jpg

 この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。方谷は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士の河井継之助(1827~1868)が方谷の教えを請いにこの地を訪れています。
 方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
 学規(塾のきまり)も5条定められていました。要約すると次のようになります。
1,1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2,帰省および遠出のほかは外泊してはいけない。理由があって帰れないときは報告する。
3,毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4,秋冬にはしっかり読書する。
5,寮内を清潔にし、傘、はき物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。 
高梁市教育委員会

2021-4-11houkokunagasejyuku2.jpg

・長瀬塾(跡碑)上記は長瀬塾古図(間野凸渓画)
 山田方谷は、備中松山藩の元締役を退いた後の1859年(安政6年)55歳の時、土着政策を自ら実践するため、この地に(方谷駅構内)移住した。この年、後に藩政改革で功績を上げた、長岡藩士(現在の新潟県長岡市)河井継之助が訪れている。
 1869年(明治2年)塾舎を増築して子弟教育に努めていたが、亡母の霊を慰めるため大佐町小阪部に住居を移転し、長瀬塾は嗣子耕蔵に託した。1881年(明治14年)耕蔵没後、遺族は元の山田家跡(高梁市中井町西方)に移った。
 1920年(大正9年)山田方谷縁の人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れて屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てた。1928年(昭和3年)伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設した。(中井地域まちづくり推進委員会)(文:方谷駅内案内板より)

2021-4-11houkokunagasejyuku4.jpg2021-4-11houkokunagasejyuku7.jpg

山田方谷旧宅及び長瀬塾跡