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取材記事内をタグ「山田方谷」で検索した結果,12件の記事が見つかりました。

山田方谷生家址(高梁市)

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 1805年(文化2年)2月21日方谷先生は、この地で産声をあげました。父は山田五郎吉重美(山田家26代)、母は梶、身分は百姓(村方三役の長百姓)で菜種油の製造販売で生計をたてていましたが、家計は苦しくとも元は武士である、との強い気概を持って日々の生活を送っていたのです。
  幼名は、「阿璘」、本名は「球」、通称「安五郎」、小さい頃両親は、呼びやすいように「おりん」と呼んでいたようです。なお先生の兄弟は妹「美知」さん(先生8才の時死亡)、弟「平人槌平」さんの3人でした。きびしい家訓の下、(衣類は木綿に限る・酒のたしなみは無用のこと・・・等々)3才のころより読み書きを両親が厳しく教えた訳は、山田家を再興したいとの強い志があったからであり、先生はこのことを常に頭に置いて勉学に励み、両親の要望に応えようと努力を惜しまず、その能力をいかんなく発揮したのです。

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曹洞宗 巨龍山 定光寺(高梁市)

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 僧都が大同2年(807)深山幽谷の地で仏典の研究に適し、医術のための薬草・薬石が近くにあるため、ここに桓武天皇からいただいた「法皇山萬年堂」を名乗り、法相宗のお寺として創建されました。翌大同3年(808)には弘法大師が僧都を訪ねてこの地を訪れています。嘉吉年間曹洞宗に改宗され現在の37世までつづいていて、平成31年(2019)の「晋山結制」の儀式の際「玄賓僧都没後1200年法要」も同時に挙行されています。

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山田方谷旧宅及び長瀬塾跡

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 この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。方谷は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士の河井継之助(1827~1868)が方谷の教えを請いにこの地を訪れています。
 方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
 学規(塾のきまり)も5条定められていました。要約すると次のようになります。
1,1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2,帰省および遠出のほかは外泊してはいけない。理由があって帰れないときは報告する。
3,毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4,秋冬にはしっかり読書する。
5,寮内を清潔にし、傘、はき物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。 
高梁市教育委員会

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旧備中松山藩御茶屋跡(通称「水車」)

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 ここは、備中松山藩6代藩主板倉勝職(1803~1849)が、別邸として建てた御茶屋跡です。隣接して水車があったことから通称「水車」と呼ばれました。平成23年(2011)3月、高梁市教育委員会が実施した遺構調査で、水車跡の石組みが発掘され「水車」の呼称の裏付けとなりました。
 幕末に藩政改革をすすめていた山田方谷(1805~1877)は元締役を辞した後、安政6年(1859)4月、長瀬(現・JR伯備線方谷駅)に住居を移しましたが、年寄役助勤として引き続き藩政に参画することとなったため、当時、利用のなかったこの「水車」を城下滞在時の宿舎としていました。
 同年7月、越後長岡藩士河合継之助(1827~1868)が報告の教えを請いに訪れた時はじめは武家屋敷花屋(高梁市鍛治町)に宿泊しますが、8月3日からここ「水車」に移り、長瀬とを往復しながら従学し、方谷の門人進鴻渓(1821~1884)、三島中州(1830~1919)などとの交流もありました。また、周防岩国藩の儒学者東澤瀉(1832~1891)もここに宿泊し、方谷と交流し数日滞在しています。
 現在の施設は、御茶屋跡に唯一残されていた建造物を、平成18年度(2006年度)に高梁方谷会・高橋地域まちづくり推進委員会・(社)日本建築学会中国支部岡山支所が調査し、これに基づいて平成24年度(2012年度)に水車とともに整備したものです。
落成記念:平成25年6月 高梁市(文:現地案内板より転載)(2021年2月10日撮影)

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「方谷園」築庭師は作州津山の岡島亀吉

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「方谷園」
 山田方谷は幼少より孝心深く、学問に優れ、長じて松山藩有終館の学頭となり子弟の教育に努め大石隼雄、三島毅を始め多くの人材を育成した。後に、松山藩の元締役、吟味役となるや藩の窮乏を救わんと上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励を掲げ藩政改革を成功せしめた。
 明治維新の際には藩主勝静を補佐して難局にあたり、板倉家を存続させ松山藩や、領民を救い今日に至らしめた。明治の新政府は、方谷を政府の要職に迎えんとしたが固辞して受けず、専ら子弟の教育に専念した。方谷没後、上房郡教育会の発足によりその墓前に庭園を築き先生の英霊をお慰めし、その功績を顕彰して末永く後世に伝えてひとびとの模範となるべく築庭した。(文:現地看板より)(2021年1月27日・4月11日撮影)

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明親館跡(真庭市指定文化財 史跡)

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明親館跡(真庭市指定文化財 史跡)昭和43年5月1日指定
 明治3年(1870)津山藩の目木触・河内触有志の発起により両触の郷学として、早川代官ゆかりの地に創設されました。
 備中聖人と称された山田方谷を顧問に、方谷の門人を講師に迎えました。明親館の名は、「智仁義徳武に親しむ」(親)ことによって「ひらけた国にする」(明)の意味で、方谷自ら命名しました。
明治6年(1873)に血税一揆の焼き討ちにあったことなどから、廃止されました。
平成14年3月1日 真庭市教育委員会(文:現地立て札より)

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方谷庵(新見市)

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岡山県指定史跡 方谷庵(阿哲郡大佐町小南 金剛寺境内 指定 昭和40年2月24日)
 この庵は幕末の政治家、学者、教育者で備中聖人と呼ばれた山田方谷(1805~1877)が明治5年(1872)に外祖父母の霊を弔うため、母の生家西谷家の菩提寺である金剛寺境内に建立したものです。外祖父母の位牌を祀る仏間(三畳)と炉のある床の間(三畳)を中心とした平屋建、切妻造、棧瓦葺(もと柿葺)の簡素な茶室風の建物で正しくは継志祠堂と呼ばれています。
 山田方谷は、文化2年(1805)に阿賀軍西方村(現高梁市)に生まれ新見の儒者丸川松隠に学んだのち、備中松山藩に召出され、藩校有終館の会頭・学頭として子弟の教育に当たりました。
 嘉永2年(1849)藩主板倉勝静の信任を得て藩政改革を進め藩財政の立直しに貢献し、また勝静が幕府老中首座のときそれを援けて活躍しました。
 明治維新後は当小阪部に隠棲し、小阪部塾を開いて子弟の教育に当たるとともに、しばしば当庵を訪れ、祖先の霊を弔って晩年を過ごしました。 新見市教育委員会 岡山県教育委員会(文:現地案内板より)

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方谷記念館(新見市大佐)

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山田方谷(1805~1877)は、明治3(1870)年、長瀬(高梁市中井町)から亡き母のふるさとである小阪部(新見市大佐)へ住居を移し、小阪部塾を開きました。新しい時代の教育に情熱を捧げるとともに、祖父母の墓を守ったのです。
小阪部での暮らしは、幕末の動乱の時代とは違い、穏やかなものであったようです。その生活の中で目に映る景色や自分の気持ちを詠んでいます。明治10年6月26日、73歳を一期として、小阪部塾で家族らに見守られ静かに永眠しました。
ここ新見市大佐は、山田方谷先生終焉の地であります。(文:現地記念碑より)

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臥牛亭(がぎゅうてい)高梁市指定重要文化財

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 桁行2間、梁間1間半の切妻造、桟瓦葺の平屋です。一方の妻側に半間の庇(ひさし)を設けて戸口とし、他の三方は窓を大きくとって明り障子を立てまわす開放的なつくりとなっています。
 臥牛亭は、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)・15代将軍慶喜(よしのぶ)の2代の将軍に信頼され、2度にわたって老中を勤めた、藩主板倉勝静(かつきよ)が農民の苦労をしのぶため、御根小屋(藩庁)の一郭に農園を設け、明農圃と名付け自ら農耕をしたと言われています。さらにその一隅に小亭(12.4㎡)を建て、農耕の神々を祀り五穀の豊穣を祈りました。
 明治6年(1873)に御根小屋の全建物と共に撤去されましたが、山田方谷はこれを惜しみ、対岸の蓮華寺境内へ、その後八重籬(やえがき)神社に移築され、臥牛亭あるいは明農亭として現在に至っています。平成22年に保存修理を実施しました。
昭和33年2月24日指定 高梁市教育委員会(文:現地案内板より)

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山田方谷記念館(高梁市)

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開館にあたって
 高梁市では、地域の将来展望を見据えた取組の一環として策定した「高梁市まち・ひと・しごと総合戦略」(平成28年1月)の中で、「心豊かな人材の育成」を目指すこととし、「郷土の偉人山田方谷の顕彰と啓発」を、その施策の一つに位置づけています。
 具体的には、幕末期に財政破綻した備中松山藩を立て直した「山田方谷」の改革理念やその手法、そして多くの人々に感銘を与えた「思想」について、市を挙げて学ぶとともに、「山田方谷」の残した偉業を全国に発信し、「学びのまち」高梁を形成することとしています。
 本館は、その目的達成に向けて、「山田方谷」の偉大な事績について、「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」の三つのテーマを設定して、各種の歴史資料や解説パネルにより、わかりやすく展示・紹介しています。
 また、市内はもとより県内各地の「方谷ゆかりの地」や、方谷に関する書籍・映像を紹介し、「山田方谷」に関する情報を発信する拠点施設として整備しました。(山田方谷記念館)

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