衆楽園のスイレンの花と木々
大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。池は中島と中島にかかる橋によって、大まかに三つの水面に分かれており、北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出し、余芳閣の2階からは、このような奥行きのある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができます。これに対して、中央から南の池は、池をめぐる道づたいに広々とした水面の風景を楽しむことができます。(2020年6月6日・8日撮影)
大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。池は中島と中島にかかる橋によって、大まかに三つの水面に分かれており、北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出し、余芳閣の2階からは、このような奥行きのある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができます。これに対して、中央から南の池は、池をめぐる道づたいに広々とした水面の風景を楽しむことができます。(2020年6月6日・8日撮影)
可愛い薔薇の花が咲いていると友人から電話をいただいたので、早速お邪魔してきました。
ピンクの可愛いお花や一重の美しいバラの花をはじめ、色とりどりのバラの花が咲いていました。
お友達から頂いたものや、挿し木で育てられた約40種類のバラの花が、お庭で所狭しと咲いていました。特に紫色のバラの花がお好きだそうです。また、テラスでお茶しているとバラの花が香ってきて、ずっとここにいたいくらい素敵でしたよ。(※一般の方には解放されておられません。)(2020年5月13日・5月25日撮影)
天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)は、長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)です。江戸時代になると、津山藩の祈願所として尊ばれ、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であったといわれています。また、境内には沢山のシャクナゲが植えられています。(2020年5月17日・23日撮影)
鴨川公園(津山市高野本郷1620-2)は元津山市立鴨川(おうせん)中学校跡地にある公園です。(1976年鴨川中学、国分寺中学および東中学の一部と統合し津山市立津山東中学校へ)鴨川公園へ伺った時には丁度桜の花が満開で、建物は鴨川中学の跡地に建てられた雇用促進住宅を経て現在はビレッジハウスになっていました。(2020年4月6日撮影)
2020年5月22日にイナママと久しぶりにお会いしてきました。
お元気で何より。「こんなに長いことお休みしたのは初めての出来事で前代未聞じゃわ。家の中で断捨離したり、仕事したり元気にしとったよ!もうすぐ6月になったらお店も開けるけんな。」とのことでした。また、母の日には全国から沢山のお花が届いたそうです。「みなさん。ありがとうございました。」
「旅館 お多福」さんにテイクアウトのハヤシカレーを戴きに行ったのですが、玄関先で目にした可愛い山野草やミニバラがなんとも可愛く咲いていましたので、思わずカメラに収めてまいりました。このお花を大切に育ててこられた「旅館 お多福」の女将の竹内真理さんの愛情たっぷり受けた可愛いお花達です。(2020年5月20日撮影)
2020年4月7日・5月9日に小橋公園(津山市院庄625-1)を訪れてきました。中国道の院庄IC出口近くにある公園ですが道幅はすごく狭いです。4月に訪れた時には、大木を伐採中で作業される方々がおられましたが、5月に再度訪れた時にはさつきの花が満開で綺麗でした。
作楽神社(津山市神戸433)でアヤメが咲いているとの事で観に行ってきました。今年は新型コロナウイルスの影響もあり境内を訪れる人影もなく静かに咲いていました。このお花たちは、地元住民有志や院庄花作りボランティアの皆さんがお手入れされているそうです。(2020年5月9日撮影)
津山市東一宮の静かな住宅街の中にある鳥居公園(津山市東一宮1302)を取材してきました。
さくらの花が咲き始めていた鳥居公園では、年配者数人がお散歩に来られていました。また、学生さんや子ども連れの方もおられ老若男女が集う公園のようです。小学校高学年の子どもさんが「何しているの?」と声をかけてくれたので「写真を撮っているのよ。」と言うと公園の名前があるところまで連れて行ってくれました。親切な子どもさん達で心が暖かくなりました。(2020年3月25日撮影)
美作の田口氏=云い伝えによれば蘇我蝙蝠臣の末、田口朝臣房富二十一世の孫田口重如當國苫田郡を領して田野村に瑞雲山を建立す。その子光益、大和國髙市郡を領し、その子左衛門尉光政、小吉野庄を領してて北髙田に城を築く。また、田野邑に田口山引乘寺(正明寺)を建立す。建武以来山名時氏に属して作州を平定し應永二年三月七日卒したり。なお、山名坊菴入道忠政の女(守護代鶴山城に居る)、虎御前は田口薩摩守光政の室なりと伝わる。
光政の一子紀重藤は、天正十七年に備中松山城を攻めて庄蔵人を討伐せし功により、勝南郡南分吉留村を領し、光政の二男忠光は父の跡を継ぎ北髙田に居城す。忠光五世の孫田口彦兵衛光正に至り、大内義興を助け、その子志右衛門尉重光は尼子晴久に属し、天文年中各地に転戦したれど、のち毛利氏に随いて宇喜多勢と戦いたり。その後大蔵甚兵衛尚治と謀りて志戸部の出城を潰滅させたれど、その子藤左衛門益重に至り、天正七年神楽尾落城して宇喜多氏に降りたりという。このほか「東作志」に「勝南郡公文庄重藤邑庄屋田口庄七」記載さる。(文:『田口一族』より)