美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)

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保田市郎右衛門(野村)
 野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。  

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 保田氏について俚諺に「野村の保田は總保田」と云う語があり、野村の保田一族が繁衍の状態にあることを意味している。しかし、森家時代から里正を勤め又、松平領になって中里正を勤めたと云い、百五十六舊家の中の一つで、その出自については明らかに武門の流れを引いていると思われる。
 東作誌は野村の肝煮は保田氏平作、庄屋は同忠右衛
 大庄屋並と言われた市郎右衛門とは御家(代々多く襲名)の定政であろうか。保田家の墓は野村の片山の丘陵地にある。菩提寺は天台宗金華山永案寺である。明治年間棄釈して神道となった。

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長屋門

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往時をうかがわせる中庭と土蔵

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往時をうかがわせる中庭

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保田家

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保田家                     納屋・作業場・物置

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往時をうかがわせる中庭

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往時をうかがわせる中庭

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往時をうかがわせる中庭

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保田家

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往時をうかがわせる中庭(2014年10月8日撮影)


 保田家の由縁の陽地社神大明神について、舊地釋迦大明神と号す。往古の棟札はなしとして、元禄六年發酉九月、地釋迦大明神、苫東郡高野西村、祠官片山信濃守源家長、願主保田市郎左衛門、同 源四郎、松永六左衛門、神田小左衛門の名前を載せている。又、元禄十四年、正徳三年の棟札には陽地社神大明神とあって、乳の少き婦人折れば霊験有りとて参詣多しとしている。この陽地社神大明神の外に乙部天神宮というものが同じく森にある。

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 その棟札によれば、出雲國の住人乙部九郎左衛門尉の次男藤原姓定俊が野村に住した保田家の遠祖であるかのようにみえる。
 保田家の家譜によれば、始祖伊勢国司北畠家家臣乙部兵庫介廣業の弟が漂泊して雲州に行き尼子義久に仕え、その孫、九郎右衛門定義が尼子方の衰微に従って横野村安田に隠れ、その子三郎右衛門定利が森邑里方に住み、姓を保田と改称したと云う。
 五郎右衛門定政 法名法誉定政禅定門、その子五郎右衛門定久、法号時正院通岸浄運居子の代に於て、隆盛を極めていたものと思われる。
 定久の長男定直は総領家(屋号御家)を継ぎ二男定重は別家して始め屋号可美を継ぎ、後に中土居(屋号)に住したと云う。
 中土居の定靜は幼名幾治郎、通称平兵衛、後に平作と改む。剛毅謹厳、中里正に進む。奥井手を開鑿し、人曾権論争を解決する等の功績が多かった。明治十二年歿六五才。人皆徳に服した。俳句を好んだ。
 大庄屋並みと言われた市郎右衛門とは御家(代々多く襲名)の定政であろうか。保田家の墓は野村の片山の丘陵地にある。菩提寺は天台宗金華山永案寺である。明治年間棄釈して神道となった。

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 美作庄官録なる書物は江戸末期に作られたものらしく、その著者も明らかでない。又、その史料性も曖昧ではあるが、津山領森家時代或は津山領松平家時代の大庄屋名については分限帳と一致しているから、大庄屋並或は大庄屋格についてもそういう時期があったと考えてよいのであろう。大庄屋手伝とは夫々の大庄屋家の嫡子が大庄屋の業務の見習をしているわけであるから、ここでは大庄屋格について触れておく。
平成26年度 津山歴史講座 第7回(現地見学)
大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―
美作の歴史を知る会 宮澤靖彦・多胡益治