保田家の長屋(野村)

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2018年9月に保田家の長屋(ながや)を拝見して来ました。この長屋は、母家の西側から北側へとL字につながる建物が今も現存している旧家の長屋です。(2018年9月23日現在)


 保田氏について、ことわざに「野村の保田は總保田」と云う語があり、野村の保田一族が繁衍(はんえん=繁栄)の状態にあることを意味している。しかし、森家時代から里正(りせい=里の長)を勤め又、松平領になって中里正を勤めたと云い、美作百五十六舊家(きゅうか=由緒ある家)の中の一つで、その出自については明らかに武門の流れを引いていたと思われる。
 東作誌は野村の肝煮は保田氏平作、庄屋は同忠右衛
 大庄屋並と言われた市郎右衛門とは御家の定政(代々多く襲名)であろうか。保田家の墓は野村の片山の丘陵地庵山にある。菩提寺は天台宗金華山永案寺であったが、明治年間棄釈して神道となった。(文:大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―より抜粋)

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今も残る牛小屋。                現在は、たい肥作りに利用。

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かつては台所の食器戸棚だった。         左の石うすは米つき用のうす。大豆が一斗炊ける
                        大きな釜は味噌を作るため豆を煮ていた。

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明治くらいまでは人夫に飲ませる自家製の     2階は木材などの物置
お酒を作っていた場所。             山から伐採した木を乾燥させていた。

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味噌・しょう油・お酒を醸造するために麹を    土・石・かわらを積み上げて30cm程厚みのある
作っていた部屋。                カベが作られていた名残が見受けられる。
                        カベから麹の香りが感じられる。

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大八車が置いてあった場所。           用水にかかる石橋。

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北側の長屋。

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裏から見た長屋。                昔ここに水車があり、お米をついていた。

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庭にある池。

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表の庭。                    ここから奥庭へと続くエントランス。

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奥庭。

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表の倉は米倉として使われていた。        かつては、ここで二代にわたり保田医院として
(2018年9月22日撮影)             診察をしていた。