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文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩くNo.1)

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2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。出発は津山市野村にある成名公民館駐車場10:30出発です。今回は近長から杉宮周辺です。周辺には土浦藩の代官所跡や、多くの石造物などが残されており、歴史のある地区となっています。道のりは約7.5kmです。(2011年 川港が栄えた町楢の今
No.1は、念仏講碑・近長四ツ塚古墳群→近長代官所跡・八坂神社→八幡神社までです。続きはNo.2で

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2018年みまさかスローライフ列車に乗って来ました。

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 2018年5月12日美作スローライフ列車に乗って智頭駅まで行って来ました。外から見ることが多かったのですが、今回は日程も合って実際に乗車してきました。車社会ですがスローライフ列車にゆられながらの旅もまたいいもんですね。那岐駅に初めており降りたのですが、気に入りましたよ。

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平成28年度 津山郷土博物館特別展「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」

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ごあいさつ
 津山郷土博物館では、市民の皆さんに郷土の歴史や文化への理解と認識を深めていただくため、定期的に特別展を開催しています。このたび「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」というテーマで特別展を開催することとなりました。
 江戸時代の支配階層である武士たちは、移動や旅の時に行列を組んで進みました。この行列は、その主人の武威や格式を体現したものであり、単なる行進ではありません。そのため、供の人数や持たせる道具の構成などに細かい決まりがあり、その決まりの中でできる限り立派に見せようと競い合うこともありました。
本展では、津山藩松平家に伝わった各種の行列図のほか、乗物や熊野槍など行列に用いられた道具類を合わせて紹介し、武士の行列を通して江戸時代の社会のありようを概観します。
 今回、現存する松平家の行列図を全て展示します。その中でも、松平家が十万石に復帰した直後の入国行列図は、横長のふすま七枚に仕立てられた。全長十三メートルを超える巨大なものです。大名行列の詳細を視覚的に把握できる貴重な資料として注目されており、津山市庁舎の市長応接室の壁紙にも利用されていますが、その全てを一度に見られる機会はなかなかありません。本展において、多くの方々にその迫力をご体感いただければ幸いです。
 最後になりましたが、本展の開催にご協力いただいた全ての皆様に、心から感謝申し上げます。
   平成二十八年十月八日
    津山市教育委員会 教育長 原田 良一

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津山線開業120周年記念「美作国地酒列車」運行

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 2018年6月3日(日)に津山駅ホームで、津山市、美咲町、(公社)津山市観光協会と連携した、津山線開業120周年記念「美作国地酒列車」の歓迎おもてなし行事がありました。岡山駅を9:22分発で中国勝山駅12:18着、帰りは中国勝山駅15:35発の岡山駅18:50着の折り返し運転です。津山駅でお迎えしていたのですが、降りて来られた皆さんが楽しそうなので今度は乗ってみたいと思いました。それに「黄福のホルモンうどん」が販売(幸福のまち 美咲×牛肉の聖地 津山 特別企画)されているのを初めて知り、美味しそうなのでゲットして帰り美味しくいただきました。お味もまろやかでしたよ。

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瓜生神社(瓜生原)

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瓜生神社(旧村上)
 由緒沿革 口碑によると、五霊宮は当地の人楢本才兵衛が京都八所の五霊社から祭神五柱の御分霊を迎えて勧請したという。その年月は不詳。応仁二年再建以来数度に亘って修理、葺替の後、天保八年に再建したのが現在の本殿である。もと、五霊大明神、油宮大明神と称したのを明治四年瓜生神社と改称し、明治六年村社に列した。大正十一年神饌弊帛料供進神社に指定せられた。(岡山県神社庁編『岡山県神社誌』より)通称名 五霊様(ゴレイサマ)

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【津山人】彫書家 彫無季

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 彫無季(本名河野省三・1904~1992)は明治37年岡山県苫田郡津山町三丁目(現津山市本町三丁目)に生まれました。大正9年(1920)岡山県立津山中学校を中途退学し、2年余り中国上海に遊学しました。同13年(1924)帰国ののち上京し、翌年東京蔵前工業専門学校に入学しましたが、2年後に中退しました。
 その後、叔父の経営する工場の仕事を手伝いながら、独学で中国の拓本などを学習しつつ、自らの書の工芸を模索しつづけました。そして、ついに書と彫刻が一体となった彫書という新しい芸術を創造しました。
 昭和29年(1954)初の「彫書」個展を開催、以後個展の開催や各種揮毫、著書の出版など縦横無尽に活躍しました。また、昭和41年(1966)には淳和会を発足させ、後進の指導にも努めました。平成4年東京で没。享年87(文:平成18年3月18日津山市教育委員会「彫無季の芸術」より)(写真:津山郷土博物館特別展図録『彫無季の芸術』より転載)

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与謝野晶子 文学碑(美作高校)

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「うつくしき五郡の山に護られて 学ぶ少女はいみじかりけれ」
 明治2年、大阪府生。昭和17年没。明治・大正のロマン主義歌人。歌集「みだれ髪」を出して有名になった。「明星」の主宰者、与謝野鉄幹と結婚。人間解放の歌風で明星派の代表歌人。昭和8年に「美作学園」で講演した。(文:城下町津山文学碑めぐり資料より)(2018年5月16日撮影)

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ママの驚きの行動にビックリよ!

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 2018年5月14日、昨日の雨もすっかり止んで津山は晴天なり!
ママとサムハラ神社へ行こうと非番の藤井さんを伴って3人で出かけました。まずは山々が新緑で美しい事に感動。金刀比羅宮に参拝後、サムハラ神社に参拝「ここへ参った後、言うようになったのは有難うだわ~、お願いばかりじゃなく感謝せにぁなぁ~!」と教えてくださいました。そこまでは良かったのですが、強力な助っ人を得て気が大きくなったママはなんと金刀比羅宮のある山の頂上に登ると決断、「えらいわ~、しんどうわぁ~」と3人で励まし合いながら展望台まで辿り着く。その後、何を思ったかママは高い展望台にすたこら登って行きました。降りがけに私が手すりを持ったら「あんたぁ~、高所恐怖症なん?、私はなんともないわぁ~」と満面の笑みでした。

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津山・森藩・松平藩の代表的な豪商「錦屋」

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2018年3月30日の森本家とつやま自然のふしぎ館です。

 森本家は、錦屋を屋号とし、伏見町で呉服商を営む津山藩の御用商人だったそうです。先祖・森本儀太夫(永禄6年<1563>生まれ)は加藤清正の重臣で熊本城下に居住しており、その弟一族が津山藩主森忠政に召されてこの地に土着し商人となり、藩主森家・松平家に仕え、町年寄、札元などを勤め藩政の御用にあたってきた家で、9代目の藤吉さんは津山銀行頭取(明治12~42年)や町会議員を務め、町の発展に尽力されました。(呉服商の店は明治42年まで続けられていたそうです。)

 藤吉さんの子・慶三さんは、明治33年、両親に無断で内村鑑三に入門しようとするが、最初は断られ、のち、両親の許可を得た上で入門を許され、東京帝国大学農科大学に学び、内村鑑三が日曜日に自宅で開く聖書講義に毎週欠かさず出席し、その教えに共鳴し、明治34年にはキリスト教に入信。明治44、45年には内村鑑三を津山に招き、聖書講演会を開くなどキリスト教伝道に努めたそうです。

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