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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,905件の記事が見つかりました。

徳守神社の社前にある椋の木

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 西寺町と茅町との境になる裏通りに若宮神社がある。鳥居の内に二間四方の小さな社殿があるが、この家の中から大木が生えている。樹齢四百年と言われ、優に二抱え高さ二十㍍に及ぶ椋の木である。
 この木は徳守神社の社前にある椋と兄弟木という言い伝えがある。その神木伝説があるから社殿と一緒に残ったわけで、四百年ならば、築城記念の中に加えなければなるまい。徳守神社の表の石垣にもたれる椋も大きいこと周知の通りである。(文:故 白石哲氏)(2017年4月23日・24日、9月2日撮影)

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百乢の地蔵菩薩立像

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 百谷(ももたに)のはずれを左にとり急坂を登りきると百乢(百谷峠)に辿りつく。百乢は往来随一の難所といわれ、坂道の距離十七町余、百乢には一里塚があった。『作陽誌』によれば百谷や一里塚について次のように述べている。「百谷は井坂村にあり近世井村という(注:百谷村は井村と寺ヶ谷村に分かれている)。坂路は峻高で後から登る人は前を行く人の腿が見えるのでモモタニの名がついた。腿と百は訓が相通じるので今では百谷という。坂長十七町余、峠に里堠がある。養野村に通じ百谷越という。伯州通路なり」とある。一里塚のあったとされる場所に、朝倉兵衛門の寄進による石造地蔵菩薩立像(峠地蔵)が旅人の安全を祈願して建つ。年銘は読み取れないが、中養野の地蔵菩薩(六地蔵)に朝倉平右衛門の名がみえる。「施主 御茶屋□倉平右エ門」とある。□は欠損部分であるが、峠地蔵と合わせてみれば同一人物に間違いない。したがって、他の六地蔵の年銘が寛政四年であるので、峠地蔵もこのころの建立であろう。(文:『第6節 近世の交通』より)(2017年4月30日撮影)

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瑠山 醫王寺(いおうじ)(下紺屋町)

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津山市下紺屋町にある真言宗醍醐派 瑠山 醫王寺(いおうじ)が、前から気になっていましたので、ご近所の方にお聞きしました。「昔は商店街の皆さんで寄付を募り、祇園様などのお祭りも賑やかでした。今は商店街も段々と廃れてきてしまいお祭りもしていませんが、また、年に一度くらいは堂内で会議も出来たらいいと思います。そうしたら、また皆でお掃除でもできるのですが・・・。それに、松平家も平沼家も寄付者になっておられるので何か由緒もあるのでは。」と語っておられました。また、泉水寺の住職にお聞きすると、「先代から引き継をしていなかったので詳しい事は解らないが祇園信仰(牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする。)の流れで建立されたのではないか。」とのことでした。(2017年8月23・25日撮影)

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境の榎(えのき)

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 徳守神社の宮脇門から北を見ると至近距離、竹ノ馬場境に榎がある。これも大きく高い、昔から「境の榎」とされた一本である。南新座の方へ下りて、元の市立中央幼稚園のあった空き地の裏にも「境の榎」は残る。そこから少し東、妙願寺の南、長泉寺の裏にも一本があるが、上部が切断されている。
大木の落葉は墓地の大敵なのだから、止むを得ず「こうして境の榎は滅んだ」となるのであろう。また田町出雲大社の中には、囲いに保護された榎がある。これは田町中に数十本あった境の榎のやっと残った一本である。椋と榎いずれも城下町のシンボルには違いなかろう。(文:故 白石哲氏

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若宮神社の椋の木

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 西寺町と茅町との境になる裏通りに若宮神社がある。鳥居の内に二間四方の小さな社殿があるが、この家の中から大木が生えている。樹齢四百年と言われ、優に二抱え高さ二十㍍に及ぶ椋の木である。
この木は徳守神社の社前にある椋と兄弟木という言い伝えがある。その神木伝説があるから社殿と一緒に残ったわけで、四百年ならば、築城記念の中に加えなければなるまい。徳守神社の表の石垣にもたれる椋も大きいこと周知の通りである。(文:故 白石 哲 氏)(2017年4月23日・24日)

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一遍上人伝承地(旧勝北)

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一遍上人伝承地 種別 / 記念物(史跡) 指定年月日 / 昭和57年12月23日
所在地 / 中村393番地 所有者 / 新善光寺
 時宗の開祖、一遍上人がその教えを広めたといわれる地です。京都の観喜光寺が所蔵する「一遍聖絵」は、念仏を唱えながら諸国を巡り歩いた一遍の生涯を描く絵巻物であることは一般によく知られています。
 その中に美作の中山神社に滞在したことが載せられており、詞書の一節に「それを(中山神社)たちて、かなもりと申所におわしたるけるに・・・・」とあります。その「かなもり」は、現在の金森山新善光寺がある場所だろうとされています。一遍上人が伯耆の国から美作に入り、中山神社を訪れたのは弘安8年(1285)のことでした。(文:『津山市教育委員会 津山の文化財より』)(2017年8月12日撮影)

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百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

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鉄砲町のお大師様

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 津山市鉄砲町に大師堂があり、軒先に阿弥陀如来・薬師如来の札が架かっている堂宇がある。
長年解らないまま月日が過ぎていましたが、2017年8月やっと鉄砲町の池田さんをお尋ねしてきました。「お大師様で、昔は隣の方々がお涼みなどしていましたが、今ではお涼みもお祀りもされていませんし、知った方々はいなくなってしまいました。一時、極楽山 光厳寺さんにお願いして一二度拝んでもらったこともありました。今は家の敷地内にあるので、私がお祀りしています。先代がいなくなって詳しい事はわかりません。」とのことでした。その後、光厳寺の住職をお尋ねして案内していただきました。(2015年5月9日撮影)

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慈恩寺のタラヨウ(モチノキ科)

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慈恩寺のタラヨウ タラヨウ(モチノキ科) 所有者/慈恩寺
推定樹齢/250年 目通り周囲/2.4m 樹高/25m
 久米町桑下の国道429号線と県道久米中央線が交差する地点の南の山の中腹に慈覚大師開創と伝えられる古刹慈恩寺があり、本堂左奥に本樹がある。
 タラヨウは近畿地方以西の暖地の山地に生えるが、多くは庭園に栽培される。本樹は雌株で秋から春にかけて紅色の実をつける。(津山の名木百選)(2017年7月1日撮影)

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金剛寺の銀モクセイ・ツバキ(旧勝北)

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龍王山 金剛寺の銀モクセイ・ツバキ 種別 / 記念物(天然記念物) 指定年月日 / 昭和55年4月1日
所在地 / 西上500番地 所有者 / 金剛寺 員数 / 各1本
 金剛寺の入口には推定樹齢150年の銀モクセイと、同400年のツバキの木があります。銀モクセイは樹高12m、目通り周囲1.9m、根元周囲2.25mあります。地表60㎝で2枝に分かれ、さらに3mと3.5mあたりにそれぞれ第一枝を出し、樹冠の整った姿をしています。
 ツバキは樹高7m、目通り周囲1.83m、推定樹齢400年です。樹姿もよく生育が盛んで、6本の枝が張っています。季節になるとたくさんの花をつけ、訪れる人々の目を楽しませてくれます。

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