古い街道 しずな坂(押入)
しづな山をこす因幡往来(2014年12月9日取材)
古い時代の管道(国道)である出雲街道は、日本海がわの出雲地方と国の中心だった大和地方をむすぶ重要な交通路でした。岡山県内には、七つの宿場がつくられており、大名行列の通った道でもありました。
しづな山をこす因幡往来(2014年12月9日取材)
古い時代の管道(国道)である出雲街道は、日本海がわの出雲地方と国の中心だった大和地方をむすぶ重要な交通路でした。岡山県内には、七つの宿場がつくられており、大名行列の通った道でもありました。
前回の特集から、ちょっとたどってみました。(2011年9月8日~2015年1月20日最終)
実際に正確な位置なのか定かではございませんが、ここかな?と勝手に行ってまいりました。
昔の写真提供は塩山さんです。位置情報の提供をいただいた皆様ありがとうございました。
錦織神社の由緒沿革
錦織神社は秦氏の祖霊社として今より凡そ一千四百年前の欽明天皇のお御代、錦織古宮跡五三二番地に建立されたのが創始で、その後、崇道天皇を始め素素盞嗚尊を併せ祀りたると今をさかのぼる三百五十年程前の寛文七年領主森長継公の臣、喜代須源右衛門が主命により現在地に奉遷した。
明治六年村社に列格
明治十一年二十一社を合祀
明治四十年神饌幣帛料供進神社に指定
大正十三年郷社に列格
鶴亀神社(2014年9月19日取材)
大字坪井下の鶴坂に「鶴亀神社」という小さな祠があって瘡類に御利益があるとされている。
このお宮については、昔、鶴之亟と妹の亀という兄妹があった。妹の亀は世にも珍しい美貌の持ち主であった。
亀が18才の時であった。亀に懸想していた中間其は或る夜鶴之亟の不在を見すまして、亀をかつぎ出した。山道にさしかかった時、亀は中間の耳を噛みきったので、中間は怒って亀を殺してしまった。
やがて、口の中に男の耳をふくんだ亀の死体は発見された。そこで鶴之亟は、耳の無い男を妹の仇として仇討ちの旅に出た。
2015年1月1日の白加美神社の雪景色ですが、辺り一面シーンと静まり返っていましたよ。
とにかく寒い!年明けとなりました。氏神様にお参りして、昨年無事に過ごせたことを感謝し御礼申し上げてきました。さてさて今年はどんな年になるでしょうか?地方の景気が上向いてみんなが健やかにすごせますようにとお祈りしてきました。
2015年1月2日正午過ぎに雪が解けてきたのでやってきました。入り口でお聞きしたら雪を冠った津山城(鶴山公園)を撮りに朝から大勢のカメラマンが来られたそうです。入り口を過ぎ、ふと上を見るとこの石垣はスマートなんだと気付き写してみました。冬の鶴山公園も素敵ですね。
2014年10月26日(日)恒例の徳守神社の例祭がありました。今年も大勢の皆さんが来られていました。田町の奴踊りも今年は子どもではなく、大人の奴踊りでした。また、今年は30年ぶりに出動した「御花宮」のお神輿もお目見えしました。少し残念なのが、だんじりの数が6台で昨年に比べ少なかったので、毎年出せるように若者がもっともっと増えたらいいですね。
野介代の塞の神社の入口左にこの大日如来が祀られています。何でもない日にもお花が飾られていて、地区の方に大切にされているんだなと感じました。(2014年5月14日取材)
林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。
野介代のお薬師様 施主 勝田郡植月北村 早瀬兵作。御親戚にもなる菅野昭夫さん(野介代の塞ノ神社奉納)によれば、早瀬氏は出雲のお薬師様の熱心な信者でもあり、とても裕福であったそうで、作州一円に薬師堂を作るといい、職人さんを連れて建てている最中に亡くなったという事でした。ここのお薬師様は十九番目(取材2014年3月11日)
・お薬師堂とは薬師如来(やくしにょらい)という仏さまを祭ってある仏堂、または寺院の一般的な名前。
薬師如来は現世利益につながる仏として信仰されいて、大小あわせて、日本全国にたくさんの「薬師堂」がある。※現世利益(げんせりえき)=生きているうちに、いいことがあること。(野介代町内会からのおしらせより)