山王大権現(川中山王様)(押渕)

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川中山王
 吉井川が林田の南端落合で加茂川と合流し、横山小桁と日上の間を南へ金屋の渡船場に於いて、廣戸川と合流する。この辺から南は川幅も広くなり、東岸は和気山、西岸は長岡の山脈によって好風景を展開し、やがて八足ドロと呼ばれる押淵所属の河中の巖上に、山王の祠が祀られている。その景観は河水の浸食作用によって、長岡山の軟弱部分が流され、強硬な部分が河中にのこされた自然の大巖が島となったものであり、河中に突兀として聳立した奇硝の上に天然の樹木が翠影をもって粧うて居るさまは全く奇観であって、川中山王と唱え徂来人の眼をたのしませたものである。山王祠は天安2年小桁部落にある極楽寺の鎮守として祀られたと伝えられ、明治5年日吉神社と改称し、押淵神社の摂社となった。石の鳥居から峻岨な石段をのぼっての景観又絶佳、両岸の翠峰、吉井川の清流と共に全く画の如きものである。『美作史跡名勝誌』

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昔は道と離れていましたが、道が新しくなって陸続きになりました。

『川中山王』というバス停があります。『おねしょ』を治してくれる神様なんだそうです。私たちは今でも、親しみを込めて、川中山王様と呼んでいます。

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山王宮略記の説明板が見えてきます。
御祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)〔山王大権現〕(さんのうだいごんげん)
御霊験 山や水を治める神であり諸病平癒〔特に下の諸病〕に霊験あり。
御由緒 往古は津山市小桁極楽寺の守護神として創祀された。明治に至り日吉神社と号し、この絶景なる山上に移し鎮座され庶民の崇敬が篤い。現在押渕神社の摂社として年中の諸祭礼を嚴修奉仕している。(文:説明板にて)2015年1月25日取材

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これが裏参道でしょうか。

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急な坂道をあがる。                   これは何の葉?

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到着!鳥居と本殿

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本殿

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2015年1月25日


山王大権現(川中山王様)
 吉井川の浸食作用が山の軟弱な部分を押し流して岩の部分が残ってできた岩山が島となって川の中にそびえ、残った部分に松などが生い茂り、石で作った盆石のように見えて、当地一番の景観である。頂上には小さな祠が祀られています。これが山王様です。私が小学1年生の時、第二次堺大戦末期で、お国のために食糧増産が叫ばれ、2時間程度勉強をした後、全校の児童で今の道の西の空き地を開墾し、サツマイモを植えたのですが、昭和20年終戦後の9月に大水害があり道と開墾地は流されて、山王様が島になりました。あれから約55年間川の中に独立した川中山王様でした。現在は道路が広くなり山王様は地続きになりました。
 天安2年(858)今から約1146年の昔、比叡山延暦寺の天台宗の高僧慈覚大師円仁が諸国御巡業の時、末寺として、小桁山極楽寺に祠を建て、山王大権現を極楽寺の奥の院として祭ったのが始まりです。
開 基:天台宗第二の高僧慈覚大師円仁が、美作の國を御巡業の時
守護神:山王大権現 崇拝者に教えを広めて人々を救う神様
祭 神:大山咋命 山河を治め、病を治す神。特にこどもの寝しょんべんを治す神で唐辛子が多くお供えしてあった。
明治5年以後、日吉神社又、押淵神社とも云われ今日に至っている。
夏のお涼み: 7月14日
秋祭り:10月第二日曜日                  (金谷琢美氏資料)


山王様の里謡(今も地元に伝わっている)
 山王様の下り松に猿が三匹とまって、先の猿も物知らず、後の猿も物知らず、中の小猿がようもの知ってて、なまづ川へ飛び込んで、まなづ一匹おさえて、かわらけですくうて、とうすみでゆわえて、せんこでかたいで、塩谷に持って行って塩を付けて食ふたらば、あんまりかろうて、水三杯、茶三杯のんだらば、六杯腹がふくれて、向うの藪へ行って、屁をふんとこいたらば、向うのおじいさんが、鉄砲かと思うておびえた。(金谷琢美氏資料)


山王宮略記
御祭神 大山咋命(山王大権現)
御霊験 山や水を治める神であり諸病平癒(特に下の諸病)に霊験有り
御由緒 往古は津山市小桁山極楽寺の守護神として創祀された。明治にいたり日吉神社と号し、この絶景なる山上に移し鎮座され庶民の崇敬が篤い、現在押淵神社の摂社として年中の諸祭礼を厳修奉仕している。


以上、文:平成17年度 第12回 高野地区三世代交流ウォーキング大会資料より抜粋