千年寺の石燈篭両基
長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山 市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(撮影2017年4.月12日)(2014年の取材)
長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山 市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(撮影2017年4.月12日)(2014年の取材)
第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」
一宮の市といえば直に牛馬の取り引きと考えられるが、昔は牛馬は勿論各種の生活物資等の交易が行われた。最初は自分の作った品物を他の需要者に提供し、自分の欲しい物と交換したもので、神社の祭日などを利用して行われるようになった。従ってその市を監督し面倒を見、これによって利益を得る者も出て来た。後には仲介者としての商人もでき、いわゆる門前市場の成立に至った。市が栄えるとその群衆を当て込んで旅籠屋や飲食店が開かれ、遊芸人までが寄ってくる。またその遊芸人によって慰められるべく娯楽気分で群衆が一層盛んになってくる。その上一宮の市は美作の自然に良く適応している牧畜業と古い信仰の伝統との結合によって発展してきたのである。
「一宮の市」は4月中の牛の日から5月4日に至るまでの「お田植え市」である。
作陽誌には『4月中ノ牛ノ日ヲ御田植ト為ス、社僧大般若経ヲ転読ス、此ノ日ヨリ5月5日二至ルマデ四方ノ商売者雲集シ衣服器用医薬食品及ビ馬駒犢牛ノ類争イ以テ交易ス、傀儡俳優小娼遊技擾々トシテ羶ヲ附シ十数日ノ間往来蟻然タリ、是ヲ一宮ノ市ト謂ウ』
これら一宮の境内より構屋敷までの間を小市となし、牛馬など大市となし東一宮の市場町で開かれた。太平洋戦争後この市場はなくなり一宮公民館が建ち地域に活用されたが、平成になって一宮小学校跡地に移転したので、更地になっている。(作陽誌、美作一宮郷土の歩み)
『黒姫神社』は、第16代仁徳天皇と美貌の「黒日売にかかわる物語」を秘めた神社である。付近には黒日売の生家、吉備の豪族「海部直」が住んでいたという『尼堤』『誰夫山』、または黒日売の墓といわれる塚もあり、終焉の地『打伏』がある。
仁徳天皇が黒日売の帰国の跡を尋ねて吉備の山方に行幸されたときの、御製に
「山県に蒔ける菘菜も吉備人と 共にし採めば楽しくもあるか」
天皇が都に帰るとき黒日売は
「倭方へに 往くは誰が夫隠り木の 下より延ひつつ 往くは誰が夫」と詠んだ。『古事記・美作鏡』
因みに黒目谷の東北に鷹妻山あり、鷹妻は「誰が夫」、黒目は「黒女」に通ずると。『苫田郡誌、郷土の歩み』
神社は初め黒目売の住んでいたといわれる「黒目」にあったが、昭和40年代に昭和池の畔に移転された。
阿波八幡神社のスギ 所在地/阿波村位登山 所有者/阿波八幡神社 推定樹齢/500年 目通り周囲/5.0m 樹高/40m 阿波村指定天然記念物(昭和44年10月30日付)
県道加茂用瀬線に面して一際茂った森にある。全村一社の八幡神社で、当社の花祭は有名である。社叢は位登山と古称され阿波村の天然記念物に指定されいる。また境内には、スギ・ヒノキ・ケヤキ・モミ・トチノキなどが成育しており、特にスギの巨樹が多くなかでも本樹は通直で成育もよい。
スギは村の木にも指定されており、村の象徴的な存在である。(文:『津山の名木百選』より)(2017年2月4日・4月15日撮影)
2017年3月10日~12日まで佐良山農業研修施設・佐良山公民館で、「さら山景観展」(主催:佐良山住民自治協議会)がありました。地元の人が地元の風景を撮影した懐かしき平福地域の今昔ですが、時代の移り変わりを写真を通して見ると客観的に見えていいものだなと思いました。
いつの頃からかは判然としないが、五穀の神として倉稲魂神を祀ったもので、また商売の神(正一位)として神の使役に狐を従えている。
毎年2月初午の日に参詣する稲荷詣でがあり、絵馬を献ずるなど子ども連れで毎戸に銭を乞い歩く萬年講などがあったと聞く。現在ではこれらの行事もなくなったが地域や横野方面からの信者など、お参りが絶えることなく続いている。
なお、平成7年県道拡幅工事のため現在地に移動されたものである。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日・4月12日撮影)
津山市街から北に向かって行くと、中山神社の近くにある難波酒造手前の一角にある。本光寺住職にお聞きすると、元々は美土路家の屋敷神だったそうです。昔美土路家はとても広大な土地を所有していたそうで、ここも屋敷の一角だったそうです。(2016年2月3日・2017年2月8日・6月13日撮影)
「美作一宮 郷土の歩み」に『城所屋敷』の記述がある。美作の守護であった赤松氏の重臣城所備後が居を構えていたとのこと。後に中山神社に仕える泉氏、その後を美土路氏が居住した。古老によれば「一町四方の土塁と堀に囲まれていた」と。里人たちはその一画を「構屋敷」と呼んだ。
現在残る痕跡としては、現「難波酒造」敷地内に残る東西15m、高さ3m近い土塁の一部があり、最近まで公会堂東にあった防火用水プールもその堀の跡であったようだ。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)
所在地/加茂町大字知和字宮ノ前・所有者/千磐神社・推定樹齢/650年・目通り周囲/5.3m・樹高/39m
県道津山智頭八東線より東側に面して本殿にいたる参道が続いている、この参道は矢筈山登山道と併用して利用されており、人が訪れる機会の多い神社でもある。千磐神社はもと王子権現と言い、素盞鳴命を祭神とされている。本樹は境内にある二又杉の巨樹で、藤つるがからまっており藤の花が開花したときは見事である。(文:『津山の名木百選』より)(2017年2月4日撮影)
2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。今回が出雲街道歩きは最終回とのお話で50名の定員を大幅に超える78名の参加がありました。10:30分受付を済ませ、新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後、12:00バスにて乢根(たわね)まで行き、四十曲峠を超えて来ました。レポートその1は四十曲峠~嵐ヶ乢まで。