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広野小 二宮金次郎像と奉安殿跡

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▲写真提供:広野小学校校長先生
 広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
 広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。

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福井 整った石室の土居「火のかま古墳」

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福井 整った石室の土居火のかま古墳 (2012.1.15取材)
 片山・桑田集落から四つ立橋を渡ると、大崎方面と勝央方面に道が別れている。
その福井から勝央町にぬけるゆるやかな坂道(工門勝央線)を数百m上って行くと、右手の道べりに木の茂った小さな墳丘が見られる。これが、土居火のかま古墳であり、別名穴塚と言われてい古墳である。
 墳丘部の東側は、ぽっかり穴が空いており、入口に「史跡土居火のかま古墳指定 広野地区文化財保護委員会」の標識が立てられている。昭和50年代後半に、広野の公民館活動のなかに文化財保護委員会ができ、こうした文化財標識を設置する活動が行われた。
 古墳の中は、大きな石を使って整えた石室が見られ、石室だけから言えば、がっちりとした立派な保存状態の横穴式石室である。この古墳の規模は、周辺が段差のある耕地となっていることから、基底部分はもっと広がっており、おそらくは今に倍する大きさの円墳ではなかったかと思われる。

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堀坂の「釜の口用水」トンネル

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▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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城東竹灯籠年越しまつり2011~2012

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2011年大晦日に大信寺において、昨年に引き続き「城東竹灯籠年越しまつり」が開催されました。このイベントは地区の方々の手作りの灯籠が並べられ、古い町並みを温かい灯りで浮かび上がらせる幻想的なイベントです。(昨年の様子はこちらから
また、大信寺には、放浪の陶工『浅本鶴山』のお墓があります。浅本鶴山は放浪の陶工、南蛮焼の名手として高く評価されています。大信寺には自然石に「陶工」と刻んだユニークな墓があります。また、本堂の扁額が「広開浄土門」と陶器製の文字で作られているのも彼の手によります。

鶴山は明治18年(1885)津山で生まれ、2歳で陶工の浅本房吉の養子になりました。放浪、修業の後、昭和11年頃津山に帰り作陶し多くの作品を残しました。

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曹洞宗 澤龍山 少林寺

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曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)(2011.5.4)

開創 1525年(大永5年)
本寺 久米郡美咲町 夢中山幻住寺
開山 大網愚溪大和尚(幻住寺6世)
当山は、小森山圓福寺(中北上1319番地)と称していたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の名和長年に身を寄せられた1333年頃兵火によって焼失。
その後180年程そのままになっていたが、1516(永正13)年11月に幻住寺六世大網愚溪大和尚が、当時の岩谷城主大河原弾正の懇請を容れて、後に少林寺末寺となる観音寺となった地(中北上1161番地)に小庵を建立し、山号を山形臥龍に似たるを以て澤龍山とし、1525(大永5)年に「澤龍山小林庵」と称し開堂。
1597(慶長2)年、大河原弾正の三男智麟首座小林修理の修繕を得て、庵から寺に改称「小林寺」とした。
1767(明和4)年頃の中北上村は、相州小田原の大久保藩の領地で西川(現在の美咲町)代官所を設けて領内を支配していた。当山七世物外璿山大和尚が、その西川代官高橋文右衛門の賛助に依り、50余ヶ村民の出役を得て現地に移転し寺名を小から少に改め「少林寺」とした。
本堂・開山堂は、1993(平成5)年再建。本堂内には当山に金龍銀龍が舞う幅3・3mの見事な壁画が一対あり、津山市・山形弘画伯の作品である。
本尊「十一面観世音菩薩」は、岩谷城を築城した山名教清寄進の岩谷山慈悲門寺の本尊であったが、当時(戦国時代)の情勢により開基・大河原彈正が少林寺に移したものと伝えられる。【資料提供:曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺】

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中山神社の秋祭り、だんじりの取材報告

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中山神社の秋祭りが11月3日にありました。2011.11.3

中山神社は、慶雲4年(707)の創建と伝えられる美作国の一宮で、永禄2年(1559)に再建された本殿は国指定重要文化財です。中山神社の御輿は格式高くしずしずと進むみます。その姿は中山神社ならではのものだと思いました。また、だんじりは新しく造られたものだそうです。春季大祭「お田植祭り」(4月29日)にもだんじりは出ていましたよ。

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津山徳守神社秋祭りに出動しただんじり16基

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津山だんじりの歴史/総鎮守徳守神社の祭礼は、初代藩主森忠政が慶長9年(1604)に社殿を増宮した際に氏子達が練り物を出したことに始まる。【現在、県の重要有形民俗文化財に指定されている津山だんじりは28臺(徳守神社20臺、大隅神社7臺、総社宮1臺)】
津山だんじりの個性/松平宣富をはじめ、松平歴代藩主やその家族も度々津山城の一角の「赤座屋敷」から祭りを見物した。第5代藩主康哉は宮川門を開け町民を城内に引き入れ、第8代藩主斉民は城内で祭りに加わる。天保13年(1842)、祭りに出動するだんじり数に制限が設けられ、徳守神社が6基、大隈神社が2基との藩命が下された。この時の制限が、隔年、3年ごとなどの出動間隔として残っている。現在は各町内会が出動の有無や間隔を自由に決めているが、結果的に各町内が経済的にも無理をせず、だんじりの伝統が長く受け継いできていることに大きな役割を果たしている。

子供を大切にする津山だんじり/簾珠臺(宮脇町)をはじめ全てのだんじりに、宵、本祭りとも子供が乗る。これは地域の将来を担う子供たちを大切にする津山の200年ほど前から続く伝統である。(津山市HPより抜粋pdf

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「古窯復元 陶芸家 平川忠の取り組み」作品展

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 「古窯復元 陶芸家 平川忠の取り組み」作品展。

地元の美作大学でも教鞭を取られた備前焼作家の平川忠さんの作品展です。
平川さんは、作品制作の傍ら、古窯と山土の研究にも取り組んでいます。2010年からは中世の土窯での備前焼再現プロジェクトを備前市教育委員会と一緒に取り組み、新聞等でも大きく報道され注目を浴びています。今回の作品展では、第1部として「古備前」時代の窯(土窯)を忠実に再現して制作した復元作品を展示。第2部として土窯で焼かれた現代作品を展示します。備前焼の歴史と秘密を解き明かすと同時に、新しい備前焼の魅力も感じてもらえます。★詳細はこちら

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古窯復元 陶芸家 平川忠の取り組み

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○古窯復元 陶芸家 平川忠の取り組み
 ~ 中世備前焼の謎をさぐる 過去から・・・そして未来へ ~
2011年9月17日(土)~11月16日(水)
 前期:9月17日(土)~10月16日(日)
 後期:10月17日(月)~11月16日(水)
地元の美作大学でも教鞭を取られた備前焼作家の平川忠さんの作品展です。
平川さんは、作品制作の傍ら、古窯と山土の研究にも取り組んでいます。
2010年からは中世の土窯での備前焼再現プロジェクトを備前市教育委員会と一緒に取り組み、新聞等でも大きく報道され注目を浴びています。
今回の作品展では、第1部として「古備前」時代の窯(土窯)を忠実に再現して制作した復元作品を展示。第2部として土窯で焼かれた現代作品を展示します。備前焼の歴史と秘密を解き明かすと同時に、新しい備前焼の魅力も感じてもらえます。
展示内容
★前期:中世(南北朝、室町、桃山時代)を代表するすり鉢、壺、水差し、花器等の土窯復元作品を展示します。
★後期:中世の古窯を復元した土窯で焼いた花器、抹茶茶碗、オブジェ等の現代作品を展示します。
★平川忠ギャラリートーク
前期・・・9月23日(金・祝)14:00~15:00
後期・・・10月23日(日)14:00~15:00

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