取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「史跡」で検索した結果,182件の記事が見つかりました。

津山やよいライオンズクラブの奉仕活動 2019

yayoi-L46.jpg

 2019年8月7日(水)の早朝6時から沼住居跡で、津山やよいライオンズクラブ会員の皆さん(会長大戸司朗)が沼遺跡の草刈奉仕作業をされました。津山やよいライオンズクラブの名前の由来である沼遺跡の草刈奉仕作業は、昭和45年のクラブ結成以来続いているそうです。また、津山弥生の里文化財センター職員さん、有本明彦教育長はじめ津山市教育委員会職員の皆さんも参加されていました。(2017年吉井川河川敷の清掃の様子)(2016年8月24日の沼住居跡草刈の様子

津山やよいライオンズクラブの奉仕活動 2019の続きを読む

北酒造場跡(中北上)

6-29kita3.jpg

北酒造場跡(岩屋)
 安政5年(1858)創業。「清酒岩滝」は岩屋城の山王宮の岩滝より命名。昭和5年転業まで70有余年地域の人々に愛された。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

北酒造場跡(中北上)の続きを読む

西の茶屋(河本亮一氏宅・鶴坂)

西の茶屋1.jpg

 鶴坂頂上にあり、峠越えにふさわしい休憩所であった。「出雲街道 鶴坂」の石柱がある。鶴坂は津山から平坦な道が続く出雲街道の中では最初の峠で難所であった。かつてはこの峠に至る8本の小道があり、当時はこの峠が地域においても交通上重要な位置を占めていたようである。大井西村役場もあった所である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

西の茶屋(河本亮一氏宅・鶴坂)の続きを読む

旧喬松小学校跡記念碑(鶴坂)

6-29kinehi6.jpg

 明治6年創立で挙母藩陣屋官邸が校舎で、学区は坪井下村、中北上村の半村、南方村であった。明治20年中北上村の岩谷校(坪井上村、中北上村の半村が学区)を統合して尋常小学校となり、明治23年大井西村を学区とした。
 児童数の増加により、明治27年鶴坂宮高下に新築移転。昭和22年喬松小学校と改称。昭和35年大井西中学校が格致中学校に統合されたため、その跡地に移転新築され現在に至っている。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

旧喬松小学校跡記念碑(鶴坂)の続きを読む

首切り塚(坪井下)

首切り塚5.jpg

首切り塚(磯尾)
 天正の頃(1500年代)、この地で捕らえられた謀反者の塚といわれ、近くに「腹切り田」という所もあった。北側の山裾にあったが中国自動車道工事のため現在地に移された。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

首切り塚(坪井下)の続きを読む

宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)

ogatakouan5.jpg

 適塾(てきじゅく)で有名な緒方洪庵(おがたこうあん)は宇田川玄真の孫弟子にあたります。
日本に西洋医学の基礎を築いた緒方洪庵は、足守藩の佐伯惟因の末子で名を章といい、文化七年(1810)この屋敷に生まれた。はじめ、大阪の中天遊について和蘭学を修め、21歳の時江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に蘭学を学び、また長崎に下り蘭医ニールマンに学ぶ。天保9年(1838)大阪に蘭学塾を開いたが、集まる門弟3千人と称せられ、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介などもその塾生であった。文久2年(1862)幕府奥医師兼西洋医学所頭取になったが、翌3年6月10日江戸で病没、54歳。この屋敷跡は岡山県史跡の指定されている。岡山県・岡山市(文:現地案内板より)

宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)の続きを読む

高松城址公園(岡山市北区高松)

takamatsu36.jpg

高松城の水攻め 
 今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城に城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができた城は孤立した。
 6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国事恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。

高松城址公園(岡山市北区高松)の続きを読む

備中国分寺(総社市)を訪ねました。

kokubunji6.jpg

 備中国分寺跡は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉(ききん)から人々そして国を守ること (鎮護国家)を目的に建てられた官寺の一つです。
 その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されており、 当時を偲ぶことができます。国指定史跡。 (文:総社市公式観光WEBサイトより)(2019年5月3日撮影)

備中国分寺(総社市)を訪ねました。の続きを読む

坪井陣屋(代官所)跡

5-30陣屋跡1.jpg

 現在の久米町のほぼ1/5の面積を占める、旧久米北条郡十二ヵ村は、慶長八年(1603)以降、森氏(津山藩)の領内であった。
 しかしながら、元禄十年(1697)八月に四代藩主森長成が後嗣なく死去したことにより、森氏が断絶し、美作国全土は一時幕府領となった。このことにより上記十二ヵ村を含む美作国勝南・久米南条・久米北条・真島の四郡については、翌 元禄十一年九月、幕府の代官所が坪井下村におかれ、代官として西与一左衛門が着任、領内を統治した。
 その後、元禄十五年(1702)九月二十三日、上記の十二ヵ村は上野安中城主内藤氏の領するところとなった。内藤氏は、それまで陸奥国岩城城主であったが、内藤政森(1683~1738)の代に上野国碓氷と久米北条の二郡を所領とし、上野安中城に居所を置いた。(安中藩)その後内藤政苗(延享三年(1746)襲封)の代に、上野国分の所領を三河国加茂・遠江国周知・榛原の三郡に移され、三河国加茂郡拳母(現 愛知県豊田市)に築城したが(拳母藩)、久米北条郡については引き続き領有が続き、明治四年(1871)の廃藩置県に至るのである。
 元禄十一年に幕府領となった際、坪井下村に置かれた代官所は、その後幕府から内藤藩に譲渡され、陣屋として明治まで継承したが、坪井宿内のほぼ中心であるこの場所にあったと伝えられている。内藤藩時代の陣屋は、五百七十坪の敷地を有し、この中に三百三十坪程の面積の建物があったという。そして、拳母城から郡奉行以下八名が出張し(一年毎に半数が交代)、これらの人数と領内から任用した大庄屋二名を選び、領邑を統治したということである。

坪井陣屋(代官所)跡の続きを読む