少彦名神社(油木北)旧久米町
大宗油木北字宮1608番地
当社は古くは「赤子の宮」・「赤子大明神」・「児大明神」・「児の宮」・「児神社」等と呼ばれていたが、明治6(1873)年2月6日、北条県から「油木神社」と改称され、更に同10年現在の少彦名神社と改められたものであり、少彦名命を主神とし、油木北・油木上(以上久米町)・北・南(以上久米郡旭町)の四大字の産土神である。
大宗油木北字宮1608番地
当社は古くは「赤子の宮」・「赤子大明神」・「児大明神」・「児の宮」・「児神社」等と呼ばれていたが、明治6(1873)年2月6日、北条県から「油木神社」と改称され、更に同10年現在の少彦名神社と改められたものであり、少彦名命を主神とし、油木北・油木上(以上久米町)・北・南(以上久米郡旭町)の四大字の産土神である。
神田 神田荒神様 (2015年5月2日取材)
神田荒神様の場所は、神田公会堂屋敷内の西にある。
7月12日夏祭り、10月12日秋祭り、毎年老人会主催で徳守神社の神官をお招き、祭礼を行っている。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人
(2014年7月30日取材)
稲荷大明神を祭った社が鷹(高)山にあり「稲荷様」と呼んで楢村の商売繁盛の神として村の人たちに敬われていた。山の北面中腹に岩倉を背にして社がつくられ、西側の近長道から鳥居をくぐった参道が右折して2,3段の石段を上がるともう一つの鳥居がある。そこから15.6mの石段を上ったところに社がある。
吉見神社 所在 神庭村大字吉見
大日靈尊・大己貴命を祀る。元和2年9月字岩尾山鎮座女一神社(祭神大日靈命)國司神社
(祭神大己貴命)を合祀し、字京上に轉祀す。女一社は仁壽元年3月、國司は安和元年9月の勸請と傅へらる。明治6年村社に列せられ吉見神社と改稱す。大正6年無挌社12社を合祀す。後神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
上部神社 所在 神庭村大字草加部
譽田別命を祀る。天照大御神及び天兒屋根命を相殿とす。初め欽明天皇32年天照大神を祀り上部大神宮と稱す。次て清和天皇貞勸2年更に譽田別命を勸請し天照大御神及び天兒屋根命を相殿に祀り上部八幡大神宮と改稱し、養和中初めて放生會を行ふ。明治6年村社に列せられ上部神社と改む。同40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。
1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。
翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。
山本神社(高野山西)2015年1月25日取材
山本神社は昭和14年11月吉日 山本繁俊さんが建てたもので個人所有のものです。
山本さんのご親戚の方がお掃除などをされていて、今でも年一回お祭りをしていらっしゃるそうです。
高野山西の山の中腹に、地元の人が観音様と呼ぶ建物があるとお聞きし、行って来ました。
建物は古くなり、お参りする人もほとんどないのですが、「何とかしないと。」と地元の方たちが相談している所だそうです。(2015年3月1日取材)
高野山西にある夏目荒神社(2014年7月3日取材)
地元の人に伺うと、この荒神様の祭礼は今はしていないとのことでした。(昔は年に4回祭りをしていたそうです。)また、残念なことに由緒沿革も解らないそうです。現在は地元の人達32軒程がお祓いをされているそうです。