坪井鉱山選鉱場跡・茶臼山古墳(坪井上)
坪井上立野の谷にあり黄銅鉱を産出。文久元年(1861)の頃採掘を始めた。明治30年頃から大正にかけては一時大盛況となったが、大正末に休山。昭和10年頃、昭和鉱山KKが再度始めたが終戦後銅価の暴落で閉山。すぐ後ろの山が茶臼山古墳である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
坪井上立野の谷にあり黄銅鉱を産出。文久元年(1861)の頃採掘を始めた。明治30年頃から大正にかけては一時大盛況となったが、大正末に休山。昭和10年頃、昭和鉱山KKが再度始めたが終戦後銅価の暴落で閉山。すぐ後ろの山が茶臼山古墳である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
妙見宮・地神様(明谷)
妙見宮は北極星を祀った北辰妙見宮で無病息災、家内安全、五穀豊穣を司る神。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
鶴坂の上り口にあり、寺城出身の力士の塚である。弘化4年(1847)の大坂番付に記載されている。本名は太田斉七といい、墓が寺城池の下にある。斉七塚のすぐ上は墓地になっており、疣神社、六体地蔵、供養碑がある。さらに進むと鶴坂の頂上付近の中国自動車道を横断する陸橋を渡るとすぐ左の小祠が鶴亀神社である。そばに三星城の家臣鶴之丞が妹亀の仇を討とうとしたが返り討ちに遭ったという哀話の説明板がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
北酒造場跡(岩屋)
安政5年(1858)創業。「清酒岩滝」は岩屋城の山王宮の岩滝より命名。昭和5年転業まで70有余年地域の人々に愛された。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
坪井金毘羅宮石灯籠(坪井)
安政2年(1855)寄進。灯籠には「村中安全」と彫られている。金毘羅宮は称念寺の南側の西山(古墳)」の頂上にある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年5月30日撮影)
鶴坂頂上にあり、峠越えにふさわしい休憩所であった。「出雲街道 鶴坂」の石柱がある。鶴坂は津山から平坦な道が続く出雲街道の中では最初の峠で難所であった。かつてはこの峠に至る8本の小道があり、当時はこの峠が地域においても交通上重要な位置を占めていたようである。大井西村役場もあった所である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
明治6年創立で挙母藩陣屋官邸が校舎で、学区は坪井下村、中北上村の半村、南方村であった。明治20年中北上村の岩谷校(坪井上村、中北上村の半村が学区)を統合して尋常小学校となり、明治23年大井西村を学区とした。
児童数の増加により、明治27年鶴坂宮高下に新築移転。昭和22年喬松小学校と改称。昭和35年大井西中学校が格致中学校に統合されたため、その跡地に移転新築され現在に至っている。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
首切り塚(磯尾)
天正の頃(1500年代)、この地で捕らえられた謀反者の塚といわれ、近くに「腹切り田」という所もあった。北側の山裾にあったが中国自動車道工事のため現在地に移された。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
稲荷宮石灯籠・豊川稲荷宮・亀山城跡(坪井)
石灯籠は2基あり、左側は文政9年(1826)、右側は天保8年(1837)に寄進され、何れも坪井宿の中央を流れる水路のほとりにあったものである。
豊川稲荷は挙母藩陣屋に祀られていたもので廃藩置県後、亀山城跡に移された。
七森神社への途中約500m北にある七森宮石灯籠は嘉永5年(1852)に寄進。「是ヨリ七森宮へ九丁」と刻んである。これは坪井宿から約900mということであり、これも水路のほとりにあったものである。
津山街デザイン創造研究所が、津山の魅力を全世界に発信し津山を盛り上げたいと津山市城東地区に2019年2月3日オープンした津山チェンチサロン&178津山ファンクラブルームをお訪ねしてきました。ここには、稲葉浩志さんの高校時代のバンド映像や写真・雑誌の切り抜きなどが沢山あります。