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取材記事内を検索ワード「史跡」で検索した結果,186件の記事が見つかりました。

宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)

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 適塾(てきじゅく)で有名な緒方洪庵(おがたこうあん)は宇田川玄真の孫弟子にあたります。
日本に西洋医学の基礎を築いた緒方洪庵は、足守藩の佐伯惟因の末子で名を章といい、文化七年(1810)この屋敷に生まれた。はじめ、大阪の中天遊について和蘭学を修め、21歳の時江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に蘭学を学び、また長崎に下り蘭医ニールマンに学ぶ。天保9年(1838)大阪に蘭学塾を開いたが、集まる門弟3千人と称せられ、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介などもその塾生であった。文久2年(1862)幕府奥医師兼西洋医学所頭取になったが、翌3年6月10日江戸で病没、54歳。この屋敷跡は岡山県史跡の指定されている。岡山県・岡山市(文:現地案内板より)

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高松城址公園(岡山市北区高松)

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高松城の水攻め 
 今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城に城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができた城は孤立した。
 6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国事恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。

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備中国分寺(総社市)を訪ねました。

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 備中国分寺跡は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉(ききん)から人々そして国を守ること (鎮護国家)を目的に建てられた官寺の一つです。
 その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されており、 当時を偲ぶことができます。国指定史跡。 (文:総社市公式観光WEBサイトより)(2019年5月3日撮影)

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坪井陣屋(代官所)跡

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 現在の久米町のほぼ1/5の面積を占める、旧久米北条郡十二ヵ村は、慶長八年(1603)以降、森氏(津山藩)の領内であった。
 しかしながら、元禄十年(1697)八月に四代藩主森長成が後嗣なく死去したことにより、森氏が断絶し、美作国全土は一時幕府領となった。このことにより上記十二ヵ村を含む美作国勝南・久米南条・久米北条・真島の四郡については、翌 元禄十一年九月、幕府の代官所が坪井下村におかれ、代官として西与一左衛門が着任、領内を統治した。
 その後、元禄十五年(1702)九月二十三日、上記の十二ヵ村は上野安中城主内藤氏の領するところとなった。内藤氏は、それまで陸奥国岩城城主であったが、内藤政森(1683~1738)の代に上野国碓氷と久米北条の二郡を所領とし、上野安中城に居所を置いた。(安中藩)その後内藤政苗(延享三年(1746)襲封)の代に、上野国分の所領を三河国加茂・遠江国周知・榛原の三郡に移され、三河国加茂郡拳母(現 愛知県豊田市)に築城したが(拳母藩)、久米北条郡については引き続き領有が続き、明治四年(1871)の廃藩置県に至るのである。
 元禄十一年に幕府領となった際、坪井下村に置かれた代官所は、その後幕府から内藤藩に譲渡され、陣屋として明治まで継承したが、坪井宿内のほぼ中心であるこの場所にあったと伝えられている。内藤藩時代の陣屋は、五百七十坪の敷地を有し、この中に三百三十坪程の面積の建物があったという。そして、拳母城から郡奉行以下八名が出張し(一年毎に半数が交代)、これらの人数と領内から任用した大庄屋二名を選び、領邑を統治したということである。

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坪井の一里塚

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 一里塚は、街道の両側に一里(三十六町=約4キロメートル)毎にそのしるしとして築いた塚で、五間(約9.1メートル)四方に土を盛り、中央に堠樹を植えたものである。慶長9年(1604)江戸幕府が官道(五街道)の制を定めると同時に整備されたもので、旅人に行程を知らせ、旅行の趣を増すとともに休む者には樹陰をあたえるなどの利益をもつものである。
 本町を通っている出雲往来も上記の政令により大道に定められ、五街道に準ずるものとなった。津山藩主 森忠政は幕命を受け、美作地方の主要な往来に一里塚を設置する事業に着手したのをはじめ、街道経路の変更、宿場や道路の整備など、街道の整備はより一層進められた。

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史跡津山城跡 三の丸北側発掘調査現地説明会

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 2018年9月15日津山城跡(鶴山公園)三の丸北側に於いて発掘調査現地説明会がありました。
津山市教育委員会文化課では、史跡津山城跡の整備事業の一環として、通路部分の調査を年次的におこなっています。平成30年度は、二の丸にある裏下門櫓台石垣の構造や、三の丸北側の江戸期の地表面を把握するために発掘調査を実施しました。

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エノキ跡(市場)

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エノキ跡/勝北町市場/町文化財(史跡)平成2年9月19日指定
  西村の県道勝北・三浦線のかたわらに、町指定文化財(天然記念物)のエノキがあった。
 樹齢200年あまり、樹高13m、この地方特有の広戸風の吹きつける方向の枝は強風にすくみ、その姿は、まさに広戸風の生き証人といわれる。
 永年の風雪に耐えたエノキも、平成2年9月19日に発生した広戸風のため倒れる。「西村のエノキ」と呼ばれて多くの人に親しまれ、幼い日の通学や遠足、奥仙の草刈り、薪とりなど、かずかずの懐かしい思い出を抱かせてくれた木であった。
 人びとの心に、いつまでも残る木エノキを、後世に語り伝えたい。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)

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宮本武蔵生家跡地(美作市)

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武蔵生家跡
 武蔵は天正12年(1584年)に生まれ、父を平田無二(無二斎)、祖父を平田将監といい、両人とも十手術の達人であった。こうした武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の頃から武術にたけており、13歳の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以降諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29歳で豊前国小倉船島(巌流島)での佐々木小次郎との決闘など、60余度の勝負をし一度も負けていない。武蔵は流儀を二天一流と称し、その兵法を五輪書、兵道鏡に残した。また、書・絵・彫刻・工芸を好み禅の修行を重ね[枯木にもずの図」等、今日重要美術品とされている数々の作品を残して、正保2年5月(1645年)、熊本の千葉城にて62歳で亡くなり弓削の里に葬られた。
 昭和34年には、宅跡が「岡山県史跡」に指定された。

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あけぼの旅館(文化庁 登録有形文化財)

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 あけぼの旅館は、津山城下町のほぼ中央部の津山市戸川町31番地に所在する。津山城下町の建設は、津山城の築城とともに、慶長9年(1604)から初代津山藩主森忠政によって開始され、およそ寛永年間(1624~44)頃には完成したとされている。
 城下町時代の戸川町は職人町で、慶長年間末以前は「富川」、以後は「戸川」の文字が用いられている。津山城下町を東西に走る出雲街道は戸川町の1本北側の本町2丁目と3丁目の通りにあたる。
 これまで、旅館名の表記は、あけぼの楼、阿けぼの、阿希ぼ乃、曙などとされてきたが、現在は「あけぼの」に統一されている。

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新しく整備された京橋門

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 京橋門は、大手筋に位置する門です。堀にかけられた木橋を渡ると正面には石垣で囲まれた空間があり、右手に折れると門があります。これを桝形虎口といい、厳重な造りとしていました。現在、門や石垣は一部現存しているのみですが、絵図から、門は櫓門であったことがわかります。
 現存するのは桝形虎口西側の石垣とそれに続く土塁の一部ですが、土塁は明治の廃城以降も累々とめぐっていたことが知られ、地元の人々からは、「万里の長城」と呼ばれ親しまれていました。
 周辺は明治36年(1903)、津山高等女学校の敷地となり、この石垣上には昭和7年(1932)完成の而立館(同窓会館)が建っていました。(文:現地案内版より)(2018年4月29日撮影)

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