あけぼの旅館(文化庁 登録有形文化財)

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 あけぼの旅館は、津山城下町のほぼ中央部の津山市戸川町31番地に所在する。津山城下町の建設は、津山城の築城とともに、慶長9年(1604)から初代津山藩主森忠政によって開始され、およそ寛永年間(1624~44)頃には完成したとされている。
 城下町時代の戸川町は職人町で、慶長年間末以前は「富川」、以後は「戸川」の文字が用いられている。津山城下町を東西に走る出雲街道は戸川町の1本北側の本町2丁目と3丁目の通りにあたる。
 これまで、旅館名の表記は、あけぼの楼、阿けぼの、阿希ぼ乃、曙などとされてきたが、現在は「あけぼの」に統一されている。

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建物の変遷と特徴
 旅館の建物は、幕末に町年寄をしていた錦屋(山田家)の屋敷の本宅をそのまま引き継いだもので、当時の屋敷を踏襲したものと言われている。しかし、裏側の2階を改修したとき、明治23年(1890)の棟礼が出て来たことから、幾度かにわたって改変の手が加わっていることがわかる。従って、往時の建物の間取りがどの程度現存しているのか不明である。

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 現当主の奥家は昭和10年(1935)から今日にまで続いている。創業時からみると経営者はかなり代わっているため、創業の時期及び改修の回数などは不明であるが、現存する建物は明治初期頃の建築と考えられる。津山市内に現存する旅館の中では最も古いものである。

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中庭には鳥が運んできた黄色のエビネが美しく咲いていました。

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 創業当時の建物は、東西の表通りの南に面して唐破風の門があり、玄関へと通じていた。1階の間取りは南北に細長い「ロ」の字形で、中央に庭が配されていた。2階も1階と同様の配置を取るが、中庭より北側、すなわち玄関部分の上は百畳敷きの大広間一室であった。

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 戦時中、城下の中では目を引く建物であったことから、空襲を警戒して大広間、門などが取り壊された。従って、中庭より北側は創業当時からみると、2階建てから1階に変更されるなど、大きく変わっている。しかし、南側は風呂、トイレなどの水まわり関係施設に若干の改造はあるものの、よく旧態を残している。

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廊下と今でも現役のランプ

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↑ 金屏風がしまってあるそうです。

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 特に内部の床飾り、欄間、天井などには、明治時代の格式ある旅館のもつ数奇屋風書院造の特徴をよく残している。

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 旅館の宿帳によると、明治40年(1907)8月13日、乃木希典が静子夫人と付き添いの内垣政吉を同伴して宿泊したことが記録されている。乃木は郷里の萩に帰る途中、岡山から中国鉄道で津山入りし、翌日は鳥取県倉吉に宿泊するという行程をたどっている。周知のように、乃木夫妻は明治天皇の後を追って、大正元年に亡くなっている。亡くなる数年前に本旅館に滞在したことになる。この時、宿泊したのが20号の部屋である。

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天井は屋久杉だそうです。

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乃木将軍お使いの夜具
明治40年分かの墓参の為、夫人同伴で全国を行脚されし折、岡山から倉吉へ向かわれる途中、当館へ泊まられた由にきいて居ります。御直筆の宿帳も、当館に伝わって居ります。主人敬白

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襖の取っ手が裏表と違っています。また、襖絵は津山城下絵(最近の作)です。

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 あけぼの旅館は現在のようなホテルのない時代、多くの人々に利用されてきた。ちなみに、旅館の記録から宿泊した著名人の一部を拾ってみると次のとおりである。
 犬養毅 灰田勝彦 山本リンダ 栃錦 清国 中村メイコ 中村雁治郎
(文:津山城百聞録)(2018年5月11日撮影)