宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)

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 適塾(てきじゅく)で有名な緒方洪庵(おがたこうあん)は宇田川玄真の孫弟子にあたります。
日本に西洋医学の基礎を築いた緒方洪庵は、足守藩の佐伯惟因の末子で名を章といい、文化七年(1810)この屋敷に生まれた。はじめ、大阪の中天遊について和蘭学を修め、21歳の時江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に蘭学を学び、また長崎に下り蘭医ニールマンに学ぶ。天保9年(1838)大阪に蘭学塾を開いたが、集まる門弟3千人と称せられ、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介などもその塾生であった。文久2年(1862)幕府奥医師兼西洋医学所頭取になったが、翌3年6月10日江戸で病没、54歳。この屋敷跡は岡山県史跡の指定されている。岡山県・岡山市(文:現地案内板より)

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 緒方洪庵(1810~1863年)は、江戸時代後期の蘭学者、医学者、教育者。文化七年(1810)、備中足守藩士佐伯惟因の三男として、この地で生まれた。
 十五歳の時、大阪の蘭方医、中天遊の門に入って蘭学をはじめ、文政十三年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。また、天保七年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長らから医学や西洋事情について学んだ。

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 洪庵二十九歳の時、医業の傍ら蘭塾「滴滴斎塾(適塾)」を大阪に開き、福澤諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本左内ら多くの門弟を育てた。
 また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した。そして、嘉永三年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて足守の除痘館で種痘を施した。近隣を含めてその数五〇〇〇人に及んだと伝えられている。

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 緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
 この生家跡は、指定面積686平方メートル、中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。平成26年3月 岡山県教育委員会(文:現地案内板より)

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顕彰碑

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(2019年5月3日撮影)


※宇田川玄真(1769-1834)
 明和6年(1769)伊勢の安岡家に生れる。
江戸に遊学し、津山藩医 宇田川玄随に師事、寛政10年(1798)その養子となる。
江戸時代のベストセラー外科書「和蘭内景医範堤綱」のほか「和蘭薬鏡」「遠西医方名物考」などの薬学書を著す。
 文化10年(1813)幕府天文台の翻訳員に登用され、「ショメール百科全書」の翻訳に携わる。坪井信道・箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの門弟を育成し、蘭学中期の大立者と称された。
天保5年(1834)江戸に没す。