2010年5月2日の愛染寺のぼたんの花
2012年5月2日の愛染寺の牡丹の花です。この日は雨が降っていたのですが、愛染寺の近くまで来ていたので牡丹の花は散ったのか気になって覗いてみました。まだ綺麗に咲いていたので写真に収めてきました。どうです!綺麗でしょ。牡丹桜は散っていました。(過去の取材)(過去のぼたんの花の取材)
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また、今回は2012年4月28日のボタンの花です。まだつぼみが沢山あったので長く楽しめそうでした。■この他、愛染寺のぼたんが綺麗でした。(2010年取材)
清眼寺は、美作88ヶ所第56番札所・美作国七福神毘沙門天霊場として、多くの参拝者で賑わいます。別名ぼたん寺ともいわれ、毎年のぼたん祭りには、色とりどりの美しい大輪の花を咲かせ、参拝者を楽しませています。
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2012.4.21
牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
真福寺(2011.6.24取材) ▲写真2012.4.17取材
瑠璃山日光院 眞福寺の略歴と沿革
当山は、天平12年(740)聖武天皇の勅りにより、太古行基菩薩開創し御本尊薬師如来を奉安され、始めは槍原地内に在って萬福寺薬師院と称していたが、現在地へは寛永年間(1624)移築され眞福寺日光院と改めたがその後、付近の火災の飛火に遭って全焼し寛文8年(1668)檀信徒より木材並びに労務の奉仕等により建立されたものです。
初代清誉上人より今日に至る迄、檀信徒聖霊香華燈明を掲げ、真言密教の寺として法燈を護り伝えて参りました。爾来、375年余の星霜を重ね近年に至っては特に老朽化し、平成5年に議題になり平成7年檀信徒の浄財等により改築を決定した。西暦2000年の節目に完成する。(情報提供:真福寺)★美作88カ所霊場会のホームページ
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河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事)
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)
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田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ)
神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。
右
(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中
左
(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある)
神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)
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福井 絵馬が往時を語る金毘羅宮2012年2月12日取材
福井の街道筋の二つ池の南山手に金比羅宮がある。こんぴらさんの通称で信仰されているが、四国琴平の金毘羅宮より勧請され、祀られたお宮であることは言うまでもない。
金毘羅宮の神は、本来、薬師如来十二神将の一人宮毘羅大将であり、とくに航海安全・交通安全の御利益で知られているが、さらに家内安全・商売繁盛・開運出世など幅広い御利益でも人気が高い神様である。江戸から明治の時代にかけて、伊勢参りとともに、一生に一度は金毘羅参りをすべきものとされ、その参詣は信心深い庶民の念願であった。森の石松の金毘羅参りは有名な話だが、とくに江戸時代後半には、町人文化の広がり、商品流通の進展・金毘羅道などの交通網の整備などを背景に金毘羅参りが流行した。 (文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)