湯大名神(勝央町)
寛政のころ泰禅上人が大阪で鴻池家の子供を助ける。謝礼の小判を辞退し、石の祠を建立し、これが湯大明神であると伝承されている。(文:『出雲街道旅日記(万の峠~津山)』より)(2020年3月28日撮影)
寛政のころ泰禅上人が大阪で鴻池家の子供を助ける。謝礼の小判を辞退し、石の祠を建立し、これが湯大明神であると伝承されている。(文:『出雲街道旅日記(万の峠~津山)』より)(2020年3月28日撮影)
久米町を走る出雲街道の東の端は、大字宮尾、字中須賀で、ここに三基の石燈籠がある。昭和44年、此の三基を一括にして久米町指定として保護されている。此の中須賀の地は、宮尾・領家・久米川南・中北下と西に続く穀倉築をひかえ、高瀬舟の舟着き場として、明治になっても茶屋があり、飲食店もあって、にぎわったところである。石燈籠は三基とも常夜燈で、昭和10年代まで中須賀の人は順番で此の石燈籠に点燈してきたもので、道しるべとは多少意味がちがうにしても、吉井川を登り降りする高瀬舟の目じるしとなっただろうことはまちがいあるまい。
津山市加茂町下津川で見かけた墨絵の様な景色に感動して写真に収めてきました。
この日は霧があってお目当ての所が分からず、下津川をウロウロと探検した様なかたちになりました。お陰様で今まで知らなかった景色に出会うことが出来、津山にもこんな景色があったんだと感動しました。美しい所でした。(2020年8月8日撮影)
津山市池ケ原の国道179号線沿いとJR姫新線の間の田んぼで咲いているひまわりの花が満開です。
長引く梅雨の中、ぱっと咲いたひまわりの花に癒されました。このひまわりの花は、東日本大震災で被災した福島の人たちを支援する「ひまわりプロジェクト」の一環で池ケ原地区の人たちが植えられたそうです。福島から贈られてきたひまわりの種を植え花が終わったら、ひまわり油に加工して福島に送り返され復興支援の一助となるそうです。(2020年7月19日撮影)
今では大字であるが明治31(1888)年町村制がしかれるまでの村々には道傍に地神さまが祭られている。此の神様は祠ではなくて、自然石に筆太に「地神」と彫りこまれた石の碑であって池普請とか道普請、さては開墾とか屋敷の造成等の土工をやる際に地鎮祭を行うのは、土地の神様である地神様に報告し且つ御了解を願い、工事が無事に終了するように御祈りするもので、天神(天っ神)に対する国っ神、即ち地祗を意味するものではなく、農民の様に土に生きる人達にとっては極めて身近な土地の神様なのである。(文:『久米町誌下巻』より)(2020年6月7日・6月17日撮影)
大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。池は中島と中島にかかる橋によって、大まかに三つの水面に分かれており、北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出し、余芳閣の2階からは、このような奥行きのある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができます。これに対して、中央から南の池は、池をめぐる道づたいに広々とした水面の風景を楽しむことができます。(2020年6月6日・8日撮影)
天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)は、長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)です。江戸時代になると、津山藩の祈願所として尊ばれ、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であったといわれています。また、境内には沢山のシャクナゲが植えられています。(2020年5月17日・23日撮影)
美作の田口氏=云い伝えによれば蘇我蝙蝠臣の末、田口朝臣房富二十一世の孫田口重如當國苫田郡を領して田野村に瑞雲山を建立す。その子光益、大和國髙市郡を領し、その子左衛門尉光政、小吉野庄を領してて北髙田に城を築く。また、田野邑に田口山引乘寺(正明寺)を建立す。建武以来山名時氏に属して作州を平定し應永二年三月七日卒したり。なお、山名坊菴入道忠政の女(守護代鶴山城に居る)、虎御前は田口薩摩守光政の室なりと伝わる。
光政の一子紀重藤は、天正十七年に備中松山城を攻めて庄蔵人を討伐せし功により、勝南郡南分吉留村を領し、光政の二男忠光は父の跡を継ぎ北髙田に居城す。忠光五世の孫田口彦兵衛光正に至り、大内義興を助け、その子志右衛門尉重光は尼子晴久に属し、天文年中各地に転戦したれど、のち毛利氏に随いて宇喜多勢と戦いたり。その後大蔵甚兵衛尚治と謀りて志戸部の出城を潰滅させたれど、その子藤左衛門益重に至り、天正七年神楽尾落城して宇喜多氏に降りたりという。このほか「東作志」に「勝南郡公文庄重藤邑庄屋田口庄七」記載さる。(文:『田口一族』より)
岡山県美咲町にある岩間山 本山寺の境内にはシャクナゲの花が沢山植えられています。毎年、訪れるのですが、今年は4月11日と少し早めに伺ってきました。2013年5月2日分と併せてご覧ください。
本山寺は、江戸時代津山藩の祈願所として尊ばれていた寺院で法然上人ゆかりの地でもあります。現在の境内地は4200坪と広く、十余棟の堂塔伽藍は昔に変らぬ面影を伝えています。また、国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)があります。
(岩間山 本山寺 法然上人ゆかりの地、2012年11月12日取材)
出雲街道は、徳川時代に参勤交代の諸大名が、華々しい大名行列の絵巻物を繰り広げた道筋であり、その昔は官道と呼ばれ、都から石見・出雲地方に文化を運んで作州を東西に貫いた重要路線であった。
また、この道筋は、元弘の乱(1331年)には、後醍醐天皇が北条高時のために至上の御身を、遠流の鳳輦に委ねられ、隠岐の狐島に遷幸の砌、史蹟をとどめられた哀史の道でもある。
元弘の乱後(1332年)、後醍醐天皇は播州今宿より杉坂峠を越えて梶並川の東岸「火の神」の渡し場に着かれた。この渡し場から川を渡り、渡里・上相を経て、岡の高塚山南麓の丘上に、間山の高福寺の寺領であった草庵を仮の行在所と定められ、仮寝の夢を結ばれたということである。
翌朝、天皇は行在所をご進発にあたり、その南にある池畔の野橋の上に、暫くご駐輦になり、幾度かの敗戦に、おやつれになった龍顔を、池水に写された。
この古事を伝えて、後にこの橋を「姿見橋」と名付けたとされている。
この橋は、昭和47年の構造改善事業のために取り壊されたが、後醍醐天皇をしのび、史蹟碑が建てられ現在に至る。(木村増夫著 『勝央今昔滝川のほとり』より)
平成9年4月 岡地区史蹟保存会