![大渡新田の碑・三村の界栗・千代のいわれ(坪井)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2020/11/oowatashi4-thumb-120x120-212875.jpg)
大渡新田の碑・三村の界栗・千代のいわれ(坪井)
![少林寺のイルミンネーション(中北上)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2020/12/syorinji2-thumb-120x120-213047.jpg)
少林寺のイルミンネーション(中北上)
![荒神様(岩谷神社)(中北上)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2019/07/6-29araokoujin2-thumb-120x120-194336.jpg)
荒神様(岩谷神社)(中北上)
![六十六部供養碑と塞の神(中北上)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2019/07/%E5%85%AD%E5%8D%81%E5%85%AD%E9%83%A88-thumb-120x120-194326.jpg)
六十六部供養碑と塞の神(中北上)
![西尾与九郎屋敷跡(中北上)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2019/07/6-29nishio3-thumb-120x120-194360.jpg)
大渡新田の碑(坪井駅前国道の南側)
文化年間(1804~1817)坪井駅のあたりを「大渡」とい、南方村と坪井下村の村境であった。
当時は雑木や籔の荒れ地であったが、福本・池田等8人の力により開墾が行われた。
その2~30年後、美田となって完成した。大渡新田は、水旱(大水や日照り)災い無く五穀豊穣であったが、その下流の住民と灌漑用水を巡って、訴訟沙汰があったと伝えられている。天保8年(1837)に建立されている。
大渡新田の碑
三村の境栗
この地は、中北上村・中北下村・南方中村の境界地であるので、境木として栗が植えられたものと考えられている。
千代のいわれ
昔、この地に千体佛を祀っていたので、「千体」が「千代」となった説と、後醍醐天皇が隠岐へ御遷幸の時、この地で御乗りの御輿を洗われたので、「せんだい」と称するようになり、文字も「洗台」と書かれていたが後に「千代」と書くようになった。とも、また、南井中村に『千躰佛』の跡があったが、仏像も仏堂もなくなって、今は「千躰」という地名だけが残っている。(文:出雲街道を歩こう会「坪井宿」資料より)(2020年11月23日撮影)