中須賀の石燈籠三基は常夜燈

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 久米町を走る出雲街道の東の端は、大字宮尾、字中須賀で、ここに三基の石燈籠がある。昭和44年、此の三基を一括にして久米町指定として保護されている。此の中須賀の地は、宮尾・領家・久米川南・中北下と西に続く穀倉築をひかえ、高瀬舟の舟着き場として、明治になっても茶屋があり、飲食店もあって、にぎわったところである。石燈籠は三基とも常夜燈で、昭和10年代まで中須賀の人は順番で此の石燈籠に点燈してきたもので、道しるべとは多少意味がちがうにしても、吉井川を登り降りする高瀬舟の目じるしとなっただろうことはまちがいあるまい。

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 少し小型のものは高さ2m70cm、嘉永七甲寅年十月吉祥日、となっている。此の燈籠には「金刀比羅宮」と刻字されていて、もとは高瀬舟の船着場のところにあったものとのことである。
 少し大型の二基の石燈籠は、形も大きさも同様、「奉献 常夜燈 明治元年十一月吉日」の刻字も同様であるが、一基には、「外宮」他の一基には「内宮」と刻まれている。此の二基はもとは出雲街道をはさんで道の両側にあったもので、最初から二基を一對として造られたものらしく、発起・世話人も同一人物で、双方の燈籠の二段目に、発起世話人 神代村今井菅五郎・甲元銀蔵 中須賀浅山五良衛門 公文中村岩本虎左衛門・岩本八百治 中須賀小河林造・日下与四郎・池田慶助 願主神代村 甲元重右衛門と刻字されている。

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 地元の宮尾村、特に中須賀は無論のこと、神代村・里公文村・一色村・戸脇村・福田上村・中北下村・錦織村・下打穴中村・宗枝邑・久米中村・等の村々は年貢米の積み出しや舟運による物資の積出しや搬入、さては水路旅行者にとって中須賀は重要な場所であった。金比羅様への水路旅行者やお伊勢様への往復の安全を祈る心が此の石燈籠にこめられているものと思う。又、前記の村々には恐らく金比羅講・伊勢講があって、その代表者が毎年金比羅様やお伊勢様に参詣したことが想像され、これら講の代表者の安全を祈る心もこめられていると思う。
 但し、内宮外宮の石燈籠については昭和57年、大字神代村の発起者銀蔵・菅五郎ゆかりの甲元家から此の石燈籠の寄付帳が発見された。

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それによると、趣意書に相当するところに次の様に書かれている。(わかりやすく書き改めた)
 そもそも天照皇大神宮は尊くありがたいことは申し上げ奉るもまことに恐れ多く、日本第一の御神にて、世上一統御神恩をこうむらざるものこれ無き儀と存じ奉り候。ここに、西々条郡神戸村において両大神宮御勧請これあり、御神前に永代常夜燈献尊仕り度く仰せ出し候者共、申し合わせ、かくの如き石燈籠建立仕り、常夜燈として手当相当の田地買求め、御神田と定め置き、宮寄信家を相頼み怠惰無く常夜燈差上げ度く存じ奉り候。わずかの雑用にては出来仕らざるは勿論同志の力に叶い難く、之に依り村々信心の御多力を以て成就仕り度く存じ候。御時節柄と為て申し上げかね候得共、御記帳御出情の程希い上げ奉り候。且又、壱歩以上は燈籠に御姓名を切付け、壱歩以下は御記帳箱に入れ置き、月々息炎延命、五穀成就の御記念これあるべき様執りはからい申すべく候間、御記帳御出情の程偏に頼上げ奉り候。以上 
 嘉永八年卯年 正月 久米北条郡神代村 黒住門人ヵ 銀蔵、 同村 同断 菅五郎、 同郡宮尾村 同断 五郎右衛門、 同郡里公文村 同断 虎左衛門

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(文:『久米町史(下巻)』より)(2011年4月10日の中須賀船着場石灯籠

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中須賀に新しく道路が作られている最中、常夜燈のある位置も移動していました。常夜燈が出来たいきさつにも色々な物語があったようです。(2020年8月19日撮影)