この木何の木?気になる木です。
鏡野を走るとき気になる木があるんです。それは、丸裸に近い木なんですが、幹は太くてどっしりしております。足元には祠があって何かをお祀りしているのでしょうね。
何だか応援したくなる木なんです。
鏡野を走るとき気になる木があるんです。それは、丸裸に近い木なんですが、幹は太くてどっしりしております。足元には祠があって何かをお祀りしているのでしょうね。
何だか応援したくなる木なんです。
宮東集会所の裏手に阿弥陀堂跡があり、地元では「ミコヤブ」と呼ばれている。
また、道城ばなには古霊様の祠がある。道城の福田修一宅の庭には、大日如来座像の祠が安置され祀られている。また、その裏山に道城寺跡がある。いずれも建立の年代は明らかでない。
作陽誌には、 「當寺清泰院は、上田邑の長継山千年寺の艮に在り、江戸時代の住職快長は、岩竇の中に聖牌を視つけました。牌面には、文治三年(1187)七月七日の文字が刻まれていました。
昔、赤松入道世貞は、兵を神楽尾城に據りました。山名時氏を撃ち抜き、安養寺で武運の祈祷と亡者の菩提を弔いました。
泣清水の碑(美作国theミステリーの中で紹介されているミステリースポット)
この南に昔水田があり、東西に流れ落ちる水音が哀調をおびていたので、この地を泣清水と呼んだ。伝説に、父の仇討を首尾よく果たした清水鶴と亀の孝女姉妹が住んでいた哀愁の地。更に勝間田の「お花」が津山城下に赴く時、最後の別れを泣いて惜しんだ悲哀の地でもある。(2013年12月3日碑より)
上村朝吉神社(上村字王子屋敷)祭神 下照姫命御旅所。
字キロロ659番地の野に在り「明治五年九月十六日朝吉神社御輿、始メテ此ノ地ニ渡り爾後、御旅所ト称ス」と神社誌にある。
祭礼は昔、加茂郷の五社の一社として鴨神社(現西加茂神社)を中心に烏居野(中村)に神幸したしたと伝えられ、明治五年に神輿を新調しキロロ野を神幸行を神幸したと伝えられ、明治五年に神輿を新調しキロロ野を神幸行事を復活して現在に至っている。
西谷上集落の北端の林の中に若宮神社が祀られている。
御神体は木像の女神で文武両道の成就は勿論、農工商業の繁盛にも霊験あらたかな神様として崇められ、氏子は西谷上組合を中心に西谷下・深山の一部である。
江戸時代には現位置東の田の中(字石田)にあった社を別所城跡地(字城山)に移して社屋・籠殿を完備し、大祭には多くの参拝者を集めていたと伝えられているが、明治40年代に村内の神社を高倉神社に合祀した際、若宮神社も高倉神社の境内に遷座し高倉神社の一社として祀られた。
「加茂町史」によれば、もとは若王子権現と唱え、勝加茂西上(現上村)・勝加茂東原(現原)・勝加茂東坂上(現坂上)の三ヶ村の産土神で、文暦元年創建と伝えられ、明治のはじめにいまの社号に改めました。神社明細帳や明治以降の文献では祭神を下照姫命としています。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年10月25日取材
勝部神社について
一(名前について)
昔は様々な仕事に其の職種ごとに名前があり、住む地域も決められていました。今もその名残として、それらの仕事に従事していた地域の名前が残されています。(綾部、倭部(志戸部)等
「勝部」というのは、勾玉、玉、鏡など研磨する仕事をさし、一説には様々な職能集団の長(統括者)的役割を担うとも言われています。
「勝」とは、磨くという意味があり。この地域には、そういう職種の人がいた場所であり
「五十年程前には、東地区の池付近で水晶を取った事がある」と言う方も居られ、産出もしていたのではと考えられます。
牛頭天王
東作誌に牛頭天皇は「西の尾に在 西分の氏神 本社 三尺二寸四方巽向 拝殿二間二間半 鳥居木 社地五段許 祭日 九月十八日」と記されている。
祭神は須佐之男命(すさのうのみこと)で疫病災難よけ、授福の守護神として祀り信仰されている。地元では天神さんと呼んでいる。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材
田熊の水田地帯の中ほどに、祇園様が祀られている。構造改善事業で区画整理されている広々とした田んぼの中に、一画だけ2~3の樹木に鳥居と小祠の祭祀場所があるため、遠くからでもすぐ見つけられる。
祇園様といえば、誰しも京都の祇園祭を連想するように、祇園祭を行う八坂神社から、この神様=牛頭天王を勧請したものであることは明らかである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012年8月お涼み