塞ノ神社(津山市野介代)

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塞の神の長い民間信仰の歴史の過程によって機能は複雑となり、色々な附会された伝承が各地域で受け継がれ、また他の神々と習合され、幸せや金運を授けてく れる神というような現実的な人生の希望を託す信仰にもなっている。岡山県下の塞の神は祠が多く、中北部で、咳、耳、脚の神とされ、塞の神にはその他、縁結 びの神、和合神、性神、道路の神、交通安全の神などさまざまの信仰や形態がある。(2014年5月14日取材)

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塞ノ神社

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塞ノ神社

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塞ノ神社


塞の神の起源
一般にいわれるサイノカミは、塞ノ神、才ノ神、幸ノ神、賽ノ神、妻ノ神、道祖神、我が国での、塞ノ神の記載の原形として「泉門二塞マス大神」「塞リ坐ス黄泉戸ノ大神」これが塞の神の初出とされる。
国生みを終えた伊邪那岐命、伊邪那美命が諸神を生む。そして火の神を生んだ折に火傷して、それが原因で伊邪那美命は亡くなる。伊邪那岐命は悲しみ「ス十ハチ御枕方二匍匐ヒ、御足方二匍匐ヒテ哭キシ時二、御涙二成レル神ハ香山ノ畝尾ノ木ノ本二坐シテ、泣沢女神ト名ク。故其ノ神避リシ伊邪那美神ハ出雲ト伯伎国ノ堺ノ比婆山に葬リキ。是二伊邪那岐命、御佩カセル十挙剱ヲ抜キテ、其ノ子迦具土神ノ頚ヲ斬リタマキ」とあり それから愛しい女神に会うため伊邪那岐命は、死後の世界である黄泉国へ追って行く。しかし死んだ伊邪那美命は黄泉国の食事をしてしまっていた。そのため現世へ戻ることができない。帰りたい女神は黄泉の神々と相談するので、その様子を見ないでくれと頼む。待ちかねた男神がその約束を破って御殿に入ってみれば、伊邪那美命の死体が腐れて蛆がたかり、八つの雷神がその体についていた。驚いた男神は恐れて逃げ帰る。女神は汚れた体を見られて恥をかいたと、黄泉醜女にその後を追わせる。そこで伊邪那岐命は黄泉比良坂に来て、道を千引きの石で塞いで対立して事戸を渡す。(神代紀に「絶妻之誓」とある。)そして女神が現世の人口を1日1,000人殺せば、男神は1,500人生むであろうと答えた。「故、其ノ伊邪那美命ヲ号ケテ黄泉大神ト謂フ。亦云ハク、其ノ追ヒシキシヲ以チテ道敷大神ト号ク。亦其ノ黄泉ノ坂二塞リシ石ハ、道反之大神ト号ケ、亦塞リ座ス黄泉戸大神トモ謂フ。故、其ノ謂ハユル黄泉比良坂ハ、今、出雲国ノ伊賦夜坂ト謂フ」と古事記に書かれている。
日本書紀も、この神話の大筋は略同してあるが、説話によって神々の名が少し異なっているのと、伊邪那美命の埋葬地を古事記では、出雲と伯耆国の境の比婆山としているのに、書紀一書五に紀伊国の熊野の有馬山としている。また古事記では伊邪那岐命が禊を祓うことによって天照大御神 月読命 建速須佐男命が生れたとしているが、書紀一書には、女神が火の神を生む前、即ち生前にこの三神を生んだとしていることなどである。


まとめ
日本の民族的信仰である塞の神は、古代より境界神としてあった。それは生と死、人間界と幽冥界、夜と昼、村と村、水と陸地など境界にあって、そこを支配する神の存在として意識されていた。人々はその境で神に防塞、防疫を期待した。大陸の宗教思想の渡来により、中国の道祖の信仰から塞の神は行路の神、道の神として道祖神にあてられた。そして防塞防疫の機能から道饗祭の神として、八衡神、久那斗神の名のもとで、国境、都や宮殿の四角四界の疫神退散 悪霊排除の機能も加えられた。しかし塞の神の「塞ぎ」の性格から、朝廷から次第に疎遠されるとともに庶民への信仰へと移る。それは塞の神に内包される精神的体質と、渡来人による防疫神としての性神崇拝から性神化され、岐神として偶像化された。神仏習合の思想は地蔵と道祖神を本地垂迹する説も出て、峠や村境の手向けの広場、神木、自然石の塞の神、道祖神に替わって地蔵がその所に立つ所も多く出てきた。
仏教の仏像崇拝は、神社に神像をもたらし、それは双神像として双体道祖神造立を促し、地蔵菩薩を模して単身道祖神がつくられるようになった。近世になって平和と道路の造成により村の境界意識は山地や谷川から集落周辺にい移るとともに、双体神造立が地域的に流行した。塞の神の長い民間信仰の歴史の過程によって機能は複雑となり、色々な附会された伝承が各地域で受け継がれ、また他の神々と習合され、幸せや金運を授けてくれる神というような現実的な人生の希望を託す信仰にもなっている。岡山県下の塞の神は祠が多く、中北部で、咳、耳、脚の神とされ、塞の神にはその他、縁結びの神、和合神、性神、道路の神、交通安全の神などさまざまの信仰や形態がある。

奉納 津山市鍛冶町住 菅野昭夫 平成6年3月吉日 (文:石碑より)