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取材記事内をタグ「お地蔵様」で検索した結果,16件の記事が見つかりました。

畝の六体地蔵(安井)

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 六体並んだ地蔵が墓地や寺の入り口に見かけられることもある。六地蔵の形式は疫病除けと塞の神信仰の結びつきという説もあるが、その後六道輪廻の信仰の主尊となったといわれる。六体の像の名称や持物・印相・六道への配置は、出典によって諸説があり一定していない。
石造六地蔵は鎌倉時代の末期頃から造られているようだが、寺や墓地に造立されるようになったのは室町時代からとも言われている。
 像容は丸彫り像や舟形光背の浮彫り像を六体並べたもの、一石に六体彫ったもの三体ずつ二石に彫ったもの、また一石一地蔵を彫り六体を並べたものなどが見受けられる。

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地蔵菩薩(原・大西)

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 地蔵菩薩と呼ぶより「お地蔵さん」と言って親しまれている。地蔵が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生を救うという信仰に基づくもので、石の地蔵さんを全国各地で見かける事ができるのは、庶民の広い信仰を物語っている。
 像容は比丘形といって剃髪頭で、如来と同様に衲衣(ころも)をまとい、右手に錫杖・左手に宝珠の姿が一般的であるが合掌像もある。
 彫り方は丸彫り・浮彫り・線彫りがあり像容には立像・坐像がある。鎌倉時代になってから各地で造られるようになり、江戸時代になると現世利益を念願とする民間信仰と合流し、現在に見られるような多様な地蔵が各地で信仰されるようになった。
 俗称で呼ばれている地蔵は多種であり願望が延命・治病・息災・安産・育児・豊作と多岐にわたり、また地蔵と子供のつながりは古くから子供守護としての結びつきも深くある。

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廻国供養の碑(中村)

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 近世において廻国聖と称す一種の聖が日本六十六国の霊場を遍歴し、一部づつの如法経を納めて歩いた。
 到るところで費用を勧進してゆき、頭を布で包み白衣に笈を背負い鉦を叩いて善根を勧進して歩く。一種特別な服装で遊行するものもあれば、巡礼姿に身をやつし廻国する農民も多かった。
 しかし本物の廻国聖でさえ六十六国を廻り尽くしたものはすくなく、遠国の道のりを他国の風物に接し、疲れと病を気づかう不安との戦いののち無事本願成就の暁に地元に廻国の記念碑を建てた。
廻国記念地蔵菩薩/中村 新善光寺/供養塔 一体

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新善光寺の六体地蔵(津山市中村)

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 六体地蔵はいづれも墓地の入口などに建てられており、この世を去った人々が弥勤の現れるまで迷わぬよう墓地のそばで見守っている。
 地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六つの世界を指し生まれ変わり、死に変わる迷いの世界で苦しむ人々をそれぞれの菩薩がそれぞれの苦しみによって救済するといわれ、室町時代にはじまり江戸時代にはいろいろな形状に造られるようになった。町内のものは、いづれも舟形半肉彫りの整ったものがおおい。

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地蔵菩薩(津山市中村)

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 地蔵さんは、もっとも庶民にしたしまれた菩薩で髪を高く結んだり、美しい着衣で身を飾るようなことはせず、頭は剃髪し僧侶のように衣をまとい手に錫杖と宝珠をもっている。
 このように地蔵菩薩は比丘の姿で遊行し、多くの衆生に接し救済するといわれている。
 また年号や、願主名を刻まないものが多く、いかにも街道を行く衆生を対象とした純粋な信仰として造立された趣はほほえましい。  
 また地蔵さまは色々な俗称で呼ばれることが多く、何事にも成就がかなう仏で崇拝され、また地蔵にまつわる伝説もおおいい。 新善光寺地蔵菩薩 中村 新善光寺 地蔵菩薩立像 一体
(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)(2018年8月18日撮影)

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光伯地蔵様(西吉田)

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光伯様納涼祭【勝南霊場30番札所】
 光伯地蔵堂は、出羽国湯殿山本道寺の修行僧が六十六部の経典を納めながら諸国を巡っていましたが、西吉田村で亡くなってしまったとのことです。村人が街道沿いに葬ったところ、その後墓に参ると、足の病が治るとの言い伝えが広まり、美作近郷を始め、亰、大坂からも人々が参るようになりました。現在、平成3年に建て替えられた新しい地蔵堂に安置されています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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夜泣き地蔵(西吉田)

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 地蔵の前に3っの石塔があり、左の自然石には、正面に南無阿彌陀仏、享保11年(1726)年○月とあり、徳川吉宗の時代に建てられたと思います。右の石碑は、正面に奉納大乘妙典六十六部、右に、文化6年(1806年)2月とあります。六十六部とは、虚無僧のことで行者です、この行者が、地蔵を寄進したのではないかと推察できます。
昔からの言い伝えによると、後醍醐天皇が、この地を通られた時、夜泣きする赤ん坊の泣き声を耳にし、地蔵を作って祀るように、住人に伝えたのがきっかけで作られたと言われています。【津山朝日新聞社より】(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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日限り地蔵と中部第81番霊場(第79番札所)

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  津山市平福の国道53号線沿いにおられる日限り地蔵です。この地蔵は部落の境にあったので、二つに分けて祀られているそうです。「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まり、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになったと言われています。軒先には中部第81番霊場(第79番札所)と書かれています。誰が手向けたかはわからないが千羽鶴が飾ってありました。(2017年9月30日撮影)

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日限り地蔵(一方)

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日限り地蔵
 『むかし、皿川に琵琶が渕という渕があった。ここでは、毎年身投げをする人があとをたたなかった。なんとかして身投げをさせないようにしようと相談し村の人たちは、とむらいをしないという立札を立てた。その後は身投げをする人がぱったりといなくなった。喜んだ村の人たちは、そこに、延命地蔵をまつった。人々はいつとはなしに日限り地蔵とよぶように成った。』
ところがこの地蔵が部落の境にあったので、けっきょく二つに分けてまつることにした。
 今の佐良神社のがけ下にあるのが本家で、すこし南の平福の道路ぞいにあるのが分家だといわれている。いつのころからか「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まっていった。評判を聞いて、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになった。
お祭り当日には、子どもの健やかな成長と交通安全を祈って、ご祈とうをお願いしております。
ー岡山の民話よりー(文:現地説明板より)(2017年9月30日撮影)

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耳地蔵(東一宮)

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耳地蔵 東一宮
 大庄屋の中島孫左衛門は、朝鮮出陣中討ち取った敵兵の耳たぶを斬り戦功の証としたが、軍命によるとはいえまことに哀れなことなので帰国後ここに塚をつくり『耳地蔵』としてその霊を弔った。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)

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