安岡町の河川敷で祀られるお地蔵様

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 吉井川に沿って安岡町から南新座までの静かなところをお散歩すると、途中、石灯籠のところで河川敷に降りる階段があるので降りてみると、石垣に沿うようにお地蔵さまが祀られています。
 「このお地蔵様は、この辺で溺れて亡くなった子供達の為に建てたって聞いてますよ。筋違橋のもう少し上手のお花淵から水練場にかけては、かなり水量も多くて、流れもキツかったんですよね。それで何人かは亡くなった方がいたんです。ウチの母親もたまにお詣りに行ってます。^_^
 元々は対岸の津山口あたりにあったものが、あの場所に氾濫の後流れ着いたらしいですよ。」と安岡町在住の廣本 慎太郎さんより情報提供をいただきました。

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吉井川に沿って歩いてみると石灯籠があります。

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河川敷に降りるとすぐ水仙のいい香りがしてきました。

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石垣に沿うように立っているお地蔵様

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夕日がきれいに映る吉井川と紫竹川が交わる河川敷です。(2020年2月11日撮影)


 明治35年生まれのよしのさんは、次のように話す。
 「父(茂次郎さん、明治元年生まれ)が材木の扱いをし始めました。おじいさんが仕事で材木を買い入れ、余ったものを売ったのが、材木商売の始まりです。菜洗場(筋違橋西側)も私のところの土地でしたが、そこで奥のほうから運んできた木材をイカダに組み、西大寺へ流していました。初めのころは大八車で材木を運んで来ていましたが、その後馬車になりました。鏡野町の湯指からもイカダを流していました。菜洗い場で材木をカズラで組み、イカダ師が二人乗って下っていました。私のところに六、七人のイカダ師がいました。西大寺まで下り、帰りは歩いていました。イカダ師に買い物を頼んだりしていました。旧駅(津山口)まで岡山から汽車が通るようになってイカダもなくなっていきました。明治のころ、安岡町付近には他に木材を扱っている家はありませんでした。津山でもあまりなかったようです。」
 イカダ流しと前後するように高瀬舟も姿を消したようだが、明治36年生まれの加藤幸男さんも、吉井川に高瀬舟の思い出をたくす。
 「安岡町南の堤防を作ったとき、ジンジロウという人を人柱にしたそうだ。それで明石屋渕と境橋の間をジンジロウ渕という。私の母は渕に花を供えに行っていた。明石屋渕の堤防下にお地蔵さまが祭ってあるが、むかしは南岸側にあった。身投げをする人があるので、地蔵さまを祭った。昭和九年の大水で境橋まで流れたので、以後、北側に移し安岡で祭るようになった。
 明治31年生まれの小川晧子さんは「安岡町の堤防に常夜灯が残っていますが、あそこに石段があって川へ下るようになっていました。昭和20年の大水のとき流れてしまいました。高瀬舟が石段のところで荷物の積み下ろしをしていました」と回想する。イカダ、高瀬舟ともに最後のころの思い出だが、安岡町は江戸期から明治にいたるまで、吉井川と結び付きながらにぎわってきた町だったことを十分にうかがえわす。
 安岡町は今も津山城下西入り口の町としての名残を見せる。もちろん、戦後の自動車時代を迎え、40年代後半に城西通りが北側の小田中地区を走り、また新境橋で国道179号線(二宮街道)と53号線が結び付いてから、かなり交通量も少なくなっている。特に、町裏の吉井川堤防は地元の人たちが通るにすぎない細い小路であり、国道を走る車にはかかわりがない。あるいは、それが古くからの伝統を町並みに残した理由かもしれない。
 かつて、川舟が行き交っていた明石屋渕(吉井川、紫竹川合流点)の常夜灯はこの堤防上の小路に立つ。江戸期から明治にかけ、高瀬舟のにぎわいをうかがわす唯一の証人。
 常夜灯の高さは約三メートル(台石は約90センチ)。南側(吉井川側)に「金比羅大権現」、東側に「文化15寅年(1818)文政元年3月吉日」、西側に「常夜灯」、北側に「願主・原田屋佐助」とあり、台石に「木村氏、植月氏、米屋耕助、□田屋□三郎 □□屋□右衛門、武蔵屋□□衛門、原田屋□四郎」と刻む。(文:『出雲街道 第5巻』より)