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取材記事内をタグ「加茂郷88ヶ所霊場」で検索した結果,33件の記事が見つかりました。

定本地蔵堂(加茂郷88カ所霊場9番札所)

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 加茂町青柳定本にある、加茂郷88カ所霊場9番札所の定本地蔵堂です。
この地区は平らな田んぼが広がり白金山が良く見渡せるところです。この地蔵堂は青柳中心部保育園のメイン道路より少し高い所にある裏道路にあります。本尊は地蔵菩薩です。詳しい由緒はわかりません。(先達は木元林造さん)(2022年10月4日撮影)

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小原上大師堂(加茂郷88カ所霊場第33番札所)

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津山市加茂町知和小原上にあり、本尊は薬師如来だそうです。千磐神社の前の県道(津山智頭八東線)と旧道の間の狭い道沿いの民家の隣で、土壁、トタン葺の加茂郷88カ所霊場第33番札所です。
加茂にお住いの木元林造さんに案内して頂かないと分かりませんでした。(2022年10月4日取材)

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和泉山 金隆寺観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第74番札所)

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和泉山金龍寺由緒(加茂町百々)
 人皇五十一代平城天皇御宇大同二年(807)丁亥ノ秋八月、大和国延鎭上人ノ開基ナリ。
此ノ山、泉涌故トテ泉山ト云フ。後、和泉山金龍寺ト云フ。
 数年ヲ経テ大寺タリシガ、七十三代堀川院御宇承應元年(1652)五月、淋雨降リ続キ山崩本堂土中二埋レ百二十余年間葏閉タル野山トナル。
 八十四代順徳院御宇宝永元年(1704)七月十八日、尊像現出シ玉ヒ再興在リテ紀洲高野山理姓院末流タリシガ、宝暦八年(1758)戌寅四月祝禍ニテ消失ス。
 明和二年(1765)酉年三月再建。再建後高野山理姓院ノ旧縁ニテ行重村真福寺末寺トナル。
昭和63年3月 百々部落 加茂町観光協会(文:現地案内板より)(2022年11月9日撮影)

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西登山 金屋寺(加茂郷88ヶ所霊場第18番札所)

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西登山金屋寺は、西谷の奥の山腹、木ノ口にある。(昭和46年2月10日村指定史跡)
 金屋寺創建の由来については明確ではない。人口に膾灸されているところによれば、阿波村はこの地からタタラ稼業の集団によって開発された。
 阿波村の地は、良質な砂鉄を含んだ真砂土(風化花崗岩)の山が多く、タタラ製鉄の跡と思われる鉄滓の散乱したところや、タタラ製鉄にまつわる地名も多く、古代から近世にかけてタタラ製鉄が行われていたことがしのばれる。
 本来、タタラ製鉄に従事した稼業集団の人たちの信仰したのは金屋子神を祀る習慣をもっていた。金屋子神は自分たちの稼業の安全と加護を願って信仰する神であった。したがって、金屋子神も社はいわゆる自分たちの職場のところに建立されたものと考えられる。

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田中山 大福寺(加茂郷88ヵ所霊場16番札所)

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 当寺は阿波村字大福寺1064番地の円山台地にあり、開基の年代は不詳である。「タタラ」製鉄には、砂鉄の採集、木炭の製造、残砂の整地、製品の運搬などに多くの人力が必要である。
 往時の製鉄関連地名が残っている現在の中土居地区の堤・杣の谷・天王・樋の下・福籠・中山・鉄穴内一帯を中心に「タタラ」職人が集まって大きな集落が形成された。この集落に後年いつのころかに中土居円山台地の上に仏教寺田中山大福寺が建立され、本尊に大日如来が安置されたのである。
 阿波村には、古くは寛延・安永ごろからの念仏供養巡拝碑が多く建立されている。光明真言霊場巡拝による弘法大師信仰は加茂谷にはかなり古い時代から信仰されていたようである。明治時代に入ってから一般に広く信仰されるようになり、特に加茂・阿波の仏教寺院と各地区にある地区堂を中心にして全加茂谷八十八ヵ所霊場、又阿波だけの八十八ヵ所巡拝霊場が設けられてからは特に村内広く民衆のなかに普及信仰されたようである。霊場巡り信仰が盛んになって、大福寺が加茂・阿波八十八ヵ所霊場の一環の中に組み入れられてから、大福寺に弘法大師の石像が本尊大日如来と並んで安置された、
 大正から昭和にかけて巡拝最盛期には、数十人の一行が列をなして霊場を巡拝し、地区の堂・札所では、御詠歌を唱え、般若心経を読んで巡った。日が暮れるとそれぞれ数人ずつに分散し接待の家に宿泊して、加茂と阿波のとの札所を数日かけて巡拝した。特に春秋の彼岸には盛大であった。大福寺に籠り殿が増築されてからは、加茂阿波霊場の中でも重要拠点であった。次第に阿波円山大師堂と呼ばれるようになり、お籠りの信者も多くなり、時には数日、一ヵ月も長くお籠りを続ける信者もあったようで随分賑わったものである。(文:『阿波村誌』より転載)(2022年10月4日取材)

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毎見山 景光寺(加茂郷88ヶ所霊場第30番札所)

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景光寺
 当寺は山下にあって、毎見山景光寺と号し真言宗醍醐寺三宝院の末寺であり、本尊は不動明王である。嘉永元年(1848)に安楽院法師が開基し、当時は物見にあった。明治18年現在地に移転した。昭和2年には、無住寺となっている。(『苫田郡誌』)(文:『加茂町史本編』より転載)(2022年10月4日撮影)(先達:木元林造さん)

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大砂地蔵堂(加茂郷88ヶ所霊場第42番札所)

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 公郷大砂(おおさこ)の大砂講組13軒は、7月24日と8月24日の年2回、地蔵様を祭る。
祭の日は、昼食後、各戸から地蔵堂に集まって念仏鐘をたたき、「南無阿弥陀仏」を合唱し、線香をたく。夕方まで念仏がつづく。念仏が済むと、昔は精進料理で、各戸から集めた金で酒を買ってきて飲んだ。子どもたちには「バゼ炒り」を特別に作ってきて配る家もあった。現在は「せんべい」を配っている。この講は伝染病、厄払い、その他病気除けを祈願するものであり、昔は法福寺住職を招いて先導してもらって唱和したが、現在は講組の長老がやっている(芦田薫談)(文:『加茂町史本編』より転載)(2022年10月20日撮影)

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中土居阿弥陀堂(加茂郷88カ所霊場第19番札所)

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 創建年代は不詳であるが堂内に享保11年(1726)丙午天の日附で28人の名前を書いた木札が残り、その裏面には寛延3年(1750)として念仏鐘一個を寄進した28人の名前が書かれている。更に享和2年(1802)と慶応元年(1865)8月の二度にわたり現高福寺によって再建の法要が営まれた祈禱札二枚が残されているところからみて、少なくとも享保11年以前の創建であると思われる。
 お堂の前の小径は現在では通る者は誰もいない廃道と化しているが、かつては大畑と西谷を連絡する主要な村道であり、これに面して建てられた阿弥陀堂は加茂谷88番札所でもあった。本尊は、阿弥陀如来(木彫立像、高さ70㎝を厨子に納める。全身に金泥の跡が残る)左側に弘法大師座像を並べている。(文:『阿波村誌』より転載)(2022年10月4日撮影)

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大畑大師堂(加茂郷88カ所霊場第20番札所)

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 創建年代は不詳である。堂内に残されている仏具の箱の蓋の表には「天保〇年十月、因洲大東郡大工」とありこのころ一度改築されており、間口二間、奥行四間萱葺き屋根のお堂となり地区の集会場と兼用で使われてきた。戦後、屋根をセメント瓦葺きに改造しているが、堂全体の老朽化と手狭なため昭和47年ごろ公会堂が別に新築されてからしばらくの間はそのまま放置されていた。屋根、壁、窓などの傷みもはげしいので昭和60年ごろ全面的な修理が行われたので、それまで地区の年配の女性の間で毎月20日個人の家を持ち廻りで開いていたお大師講がここで開かれるようになり今も続けられている。堂内には「明治3年6月14日没夏山妙清信女位」と記された簡素な木脾が残っている。
阿波村字薬師堂1701

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