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寄松の灯籠一対(下高倉東字寄松)

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 寄松の米井知博宅の北側の坂道を上ると、道の両側に灯籠が建っている。灯籠には「奉燈 氏子中」、別面に「安政二乙卯年」と記されていて、1855年の建立である。

 建立当時には近くに寄松神社があったが、東作誌によると当時から杉森神社(現在の高倉神社)は下高倉村東分と西分の氏神であった。また、この道は若林を越し宮東を経て杉森神社に通ずる道で、東分の上塩を除く各部落からの参道に当たる。このことから、灯籠は杉森神社への奉燈で、下高倉村東分の氏子が西分との境界に近いこの位置に建てたものと考えられる。(文:高倉の歴史と文化財より)

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上塩(じょうしょう)の石仏(下高倉東字石仏)

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 上塩池の北の近平用水(ちかひらようすい)路の土手下に一体の石仏が祀られている。慶長8年(1603)に書かれた善応寺縁起(東作誌)に高倉県の33か所の霊場の一つとして下高倉村石仏の地蔵堂が記されていて、お堂に納められた石のお地蔵さんとして多くの参詣があったものと思われる。水田の構造改善事業のために移設され、昔の位置は定かではない。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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お大師堂(下高倉東字溝の内)

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 下高倉東公会堂の東真向いの山すそにお大師堂がある。古くからこの場所には苫勝霊場第3番札所の大師堂(本尊 聖観世音・薬師如来・弘法大師)があって、戦前の霊場巡りが盛んな頃は、甘酒などを振る舞い賑わっていた。

 平成2年に下高倉東全戸からの浄財によって改築し、有重(ありしげ)にあった苫勝霊場第52番札所の観音堂(本尊 十一面観世音・伝教大師)を合祀した。堂内には二つのお堂の本尊が安置されている。

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二宮神社の遺跡碑(下高倉東字二宮)

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 上塩(じょうしょう)の米井孝裕宅の裏山に二宮神社の跡地があり、「村社二宮神社遺跡碑」が建っている。碑の裏面に刻まれた碑文には、「訓令第22号発布 明治44年4月20日下高倉神社に合祀し高倉神社と改称 祭神は 伊弉諾・伊弉冊命 天長年間(824~834)に奉祀」 また、「社殿の梁6尺桁3尺5寸、拝殿の梁15尺桁22尺、鳥居8尺3寸、社地9畝26歩、神田2反7畝歩、山林4反3畝歩」とある。

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寄松神社の遺跡碑(下高倉東字寄松)

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寄松神社の遺跡碑(よりまつじんじゃのいせきひ)

 寄松の木多克雄宅の北方、下高倉東と下高倉西の境を通る畝道に面した山の中に村社寄松神社の遺跡碑がある。

 碑の右側面に記された碑文には、「本社は人皇七代孝霊天皇の御宇(ぎょう)36年(紀元前255年)に紀州熊野神社から諾冊二命(伊弉諾・伊弉冊命)を勧請(かんじょう)し祭神とす」 「氏子20戸之を崇拝、明治44年5月20日改称した高倉神社に合祀」とある。氏子は寄松組合(合祀当時19戸)が主体と推察できる。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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牛神さまと愛宕さま(下高倉東字牛神)

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 寄松(よりまつ)の米井瑞臣宅の裏の坂道を上ると、右側の原野に二つの石塔が並んでいる。手前が牛神宮で奥が愛宕大権現である。

 牛神宮の石塔には、「享和二壬戌年(1802)九月吉日建立」とある。正月のやれぼう(1月11日の農家の仕事始め)には近くの農家が牛を連れて参拝していた。周辺の字名は「牛神」となっている。

 愛宕大権現の建立は「慶応元乙丑年(1865)七月吉日 寄松組中」と記されている。愛宕大権現は火よけの神として崇(あが)められ、寄松組合では毎年秋の道作りの日に御神酒を供えて火の用心を祈っている。(文:高倉の歴史と文化財より)

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長者池物語(下高倉東)

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長者池跡 右上の団地のところに堤があった。

 下高倉東の字長者池がその場所です。下高倉西の字長者池の丘陵と飯山山塊(さんかい)が接した所、下高倉西グリーンタウンの北側に堤がありました。北の端については、揚舟から後山に通じる一宮街道の北側の出張川(でばりがわ)から東が字揚舟で、西側の丘陵が字池峪、一宮街道の南の広い田んぼを「池ノ内田んぼ」と呼んでいることから、北の端はこの一宮街道あたりまでで、南北800mの大きな池であったと思われます。
 長者久作が住んでいた時代から400年後の宝暦5年(1755)に、長者池を廃して代わりに飯山池を造った記録がありますので、北の方が埋もれて水田に変わり狭くなった長者池(現在の字長者池内)が、この頃まで山西村の灌漑(かんがい)用水池として役立っていたことがうかがえます。
(2013年3月21日・6月13日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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毘沙門天堂(下高倉東字寄松)

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 広域農道の宮東バス停留場の東の堀切に架かった陸橋の北側に毘沙門天堂がある。古くは現敷地の南側にあったが、広域農道工事のため昭和49年4月現位置に新築移転した。

 このお堂は「寄松山多聞寺が焼かれた後、北之坊因明であった芦田新介が、焦土と化した境内の一隅に一宇(いちう)を建て、毘沙門天の仏像を安置して守護本尊とし、崇拝祭祀した」と伝えられている。建立は室町時代の嘉吉(かきつ)年間(1441~1444)、建っている場所は寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)北之坊があったところと推察できる。

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牛王(ごおう)神社(下高倉東字牛王)

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 下高倉東公会堂の北入り口の上に牛王神社がある。

この地方に伝染病が流行した天正3年(1575)に、牛王天皇を祀って祈念したところ、霊験あらたかに伝染病が治まったと伝えられている。御神体はこぶし大の自然石で「牛王天皇 天正三年□□□」と記されている。以後、近隣の人々に崇められ、今も上塩上、下2組合では春の彼岸にお祭りをして、家内安全・五穀豊穣を祈念し小宴を催している。(文:高倉の歴史と文化財より)

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鐘馗(しょうき)大神と虎の石塔(下高倉東字上揚舟)

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 向原(むかいばら)から東に一宮街道の坂道を上りきったところが、野村(のむら)と下高倉東の境に当たる揚舟(あげふね)の四辻である。この四辻の西北に見える山の頂に「鐘馗神」(しょうきじん)と呼ばれる自然石の塔が建っている。また四辻には「左一の宮・大たい寺」と記された道標がある。

 石塔の真中に、虎とその上に立つ鐘馗大神の姿が彫られていて、右側に「鐘馗大神 虎」、左側には「永口三月十五日延月」と刻まれている。裏面には、中央に「大日本国中口口成就」右に「天下太平十干之氏子息災延命」、左に「国土安全而牛馬安全」とある。

 「永口の3月15日に延月が建てた」と見えるが、地元に伝わる話はない。現在は揚舟・向原組合が管理し祀っている。

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