河面 清瀧寺天井の鳳凰図
▲東寺真言宗 清瀧寺本堂 天井の鳳凰図(2012年5月31日取材)
観音堂(本堂)の内部は華麗な装飾が施されています。天井は格子天井で、中央に算仙中村周介の描いた見事な鳳凰図が嵌め込まれています。
▲東寺真言宗 清瀧寺本堂 天井の鳳凰図(2012年5月31日取材)
観音堂(本堂)の内部は華麗な装飾が施されています。天井は格子天井で、中央に算仙中村周介の描いた見事な鳳凰図が嵌め込まれています。
2012.4.21
田熊 山頂に位置し祀られている愛宕神社
広野小学校下の小村池を、東に沿って、田熊上土居方面へ至る坂道をあがると、北側の山頂にある位置に愛宕神社が祀られている。丘陵性の山地のため、軽四自動車ならば、坂道を上りきった所からか上土居西山集落の墓地のあたりから、愛宕神社周辺へ行き着くことができる。
この辺りは、付近で一番高い山のため、樹木のない南面の展望がよく効く所であり、まことに愛宕の神を祀るにふさわしい場所と言える。福井の新宮山にも、同じく山頂部に小祠の愛宕様が祀られているが、こうした場所の限定は、愛宕の神の特性を考えてのうえと思われる。
愛宕の神は言うまでもなく、京都市嵯峨の愛宕神社から勧請されたものである。京の愛宕神社は、もともとは、山城と丹羽との国境にあたる鷹峰の地に鎮座し、塞の神としての性格を備えていたといわれている。平安遷都後、比叡山に相対してそびえる愛宕山で祀られた。
火の神の迦遇槌神(火産霊神)を祭神としていることから、鎮火火災の神、つまり都を火災から守る神として信仰され、ついには王城鎮護の神となって祀られた。やがて、多くの修験者たちが山籠りするようになると、愛宕山伏は諸国を遊行し、火伏せの神としての愛宕信仰を広めた。そして、村々の小高い丘を見つけては、そこに分社分霊を勧請してまわった。事例として、NHKの場合、東京港区の愛宕山にあり、その丘の上には愛宕神社が鎮座している。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事)
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)
田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。
田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ)
神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。
右
(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中
左
(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある)
神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)
田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来(2012.1.取材)
題名に揚げている小椋里右衛門碑というのは、數士のとなのる門人(弟子)たちが建立した、小椋里右衛門の顕彰碑のことである。この碑文は、次の通り。
(塔) 発起 世話方
小椋里右衛門一清碑
植月北村
鳥家音五郎一尊
(台座) 敷士
門人中
誌之
(裏)惟時 安政三丙辰歳九月吉日
辞誓 (万葉仮名で句が刻んであるも、文字不明につき不祥)
(部分的には、"算礼に○○と きくなり 数のたみ"と読める。)
小椋里右衛門は、いわゆる芸名に相当する贈名(諡)であって、本名は久常里四郎と名乗り、近くの勝加茂村安井の濃野重蔵次男と言われている。久常家より嫁がせた嫁が間もなく里帰りしてしまったため、里右衛門は、結果的に当地に来て婿になったようで、久常姓を名乗った。近くに里右衛門の墓があり、墓標には、久常里四郎 74歳明治11年(1878年)9月3日没とある。
若くして他界した娘の墓には、里右衛門娘と記入があり、里四郎と里右衛門とが同じ人物であることがはっきりと分かる。
田熊には、算仙と言われて名高い和算の大家、中村周介・嘉芽市が輩出していることから、和算を門人たちに指導していたのではないかと思われたが、地元では、算盤の先生であったと伝えられている。どこでどのような私塾を開き、植月の鳥家音五郎以下門下生に教えていたのか、その活躍は不明で、今後の調査に待つものである。
江戸時代は、儒教の教えに基づき、忠義・孝行が最も大切な美徳とされた。幕藩政治の元で民衆を教化するため、為政者は、忠誠や孝養を尽くした代表的人物を表彰したり、褒美を取らせて賞賛し、他の範とした。後世に長く伝えるため、そのことを石碑に託して建立したため、今日、こうした顕彰碑を時折見かけることがある。「孝子彌三八傅」の石碑もこうした事例の一つである。
彌三八が、母親の望むまま、足の悪い母親を背負って殿様の行列を見に行ったところ、殿様の目に止まり、孝行息子として褒められ、褒美をもらったと、地元では伝えられている。
福井 絵馬が往時を語る金毘羅宮2012年2月12日取材
福井の街道筋の二つ池の南山手に金比羅宮がある。こんぴらさんの通称で信仰されているが、四国琴平の金毘羅宮より勧請され、祀られたお宮であることは言うまでもない。
金毘羅宮の神は、本来、薬師如来十二神将の一人宮毘羅大将であり、とくに航海安全・交通安全の御利益で知られているが、さらに家内安全・商売繁盛・開運出世など幅広い御利益でも人気が高い神様である。江戸から明治の時代にかけて、伊勢参りとともに、一生に一度は金毘羅参りをすべきものとされ、その参詣は信心深い庶民の念願であった。森の石松の金毘羅参りは有名な話だが、とくに江戸時代後半には、町人文化の広がり、商品流通の進展・金毘羅道などの交通網の整備などを背景に金毘羅参りが流行した。 (文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。