田熊 神場場参道の石碑群(1) 孝子彌三八傅

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 江戸時代は、儒教の教えに基づき、忠義・孝行が最も大切な美徳とされた。幕藩政治の元で民衆を教化するため、為政者は、忠誠や孝養を尽くした代表的人物を表彰したり、褒美を取らせて賞賛し、他の範とした。後世に長く伝えるため、そのことを石碑に託して建立したため、今日、こうした顕彰碑を時折見かけることがある。「孝子彌三八傅」の石碑もこうした事例の一つである。
 彌三八が、母親の望むまま、足の悪い母親を背負って殿様の行列を見に行ったところ、殿様の目に止まり、孝行息子として褒められ、褒美をもらったと、地元では伝えられている。

漢文の石碑では、概要次の通り。
 「美作国勝北郡は我が公(土浦藩士)の別邑なり。其の田熊下村の住民に彌三八なりもの有り。父は小右衛門と日う。家素より貧困、彌三八 天資純孝、其の妻もまた至孝。相共に父母に仕えて孝養怠らず。父眼を病み殆ど盲、母もまた痿躄(足の障害)。夫婦痛庠を問い、其の之を保持するや嬰児を愛するが如し。彌三八朝に慵耕をなし、夕に脚夫となり、出入り必ず面し、小暇有れば則ち郷里及び山野の諺を話しもって之を慰む。父煙草を嗜む。夫婦晨昏(朝夕)管に盛りて之を共す。母頗る潔癖有り。彌三八常に盥を抱え臨み、妻水を奉じ巾を授く。肩腰を柔撫し盛寒の如きは常に身を似って之温む。偶病を咒う者有るを聞く。其の居を隔つること一里ばかり。之に治を請うを勧む。小右衛門肯んせず、遂に母負いて往く。その験(霊験)素より論無しと雖も、然れども其の志意の厚きは人挙て称す。初め彌三八の姉某家に嫁ぎ、其の居と隔たること数里。夫婦母之一室に臥し情意常に感じて傍人に云。二親嘗て人に誇りて日く。我に孝子有りて貧を知らず。歳月ただ楽のみと。先公褒賜するに穀若干を以ってす。小右衛門安永乙未6月4日没す。母同9日ついで没すと雖も夫婦哀れ毀骨立匪真に其の憐れみを感ぜしむと云う。遇敬頼、是郡に来宰するや蓋年有り至性(至誠)の近くに伝わらざるを憂いとなし孝子の終焉するを懼る。故に石に刻んで之を旌さんとするのみ。
文久元年歳辛酉8月
(1861年) 土浦 加藤敬頼 撰    浪華 俣策 書」
 この碑の東側に墓地があり、他よりも一回り大きい彌三八の墓には、墓碑が刻まれている。同じく土浦藩(常陸=茨城県)の加藤敬頼が、文久2年(1862年)夫婦そろっての孝養を賞賛して、記したものである。美作国勝北郡田熊下村(当時)の彌三八は、文化10年(1813年)73歳で、勝南郡福吉から嫁いできた妻兼は、文政3年(1820年)76歳で他界しているが、その名は子孫に、永く語り草として残されている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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